王秀英『よその河』 | 詩はどこにあるか

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王秀英『よその河』(epoch叢書2)(東宝社、2019年08月01日発行)

 王秀英『よその河』の詩集のタイトルになっている作品。全行引用する。

韓国から来日して
日本人の友ができるのは
幸運だといえる

口数少ない彼女は
雲が流れるように
さざ波が揺れるように
寂しさを拭ってくれた

外国人には簡単に
家を貸してくれない日本で
友は保証人になり
悲しみを癒してくれた

初めて経験した地震の恐怖に
自分の家族のように
心配してくれた

四季折々の花見にも
たくさんの祭りにも
連れて行っては私の日本での生活を
豊かにしてくれた

いつしか二人とも白髪が増え
人生の夕暮れの窓際で
彼女は私の手を握りしめて言った

うちはあんたを
韓国人やと思ったことは一度もない
いつかて 日本人やと思ってたんや
そのくらいあんたが好きなんや

 最終連の四行で、私は、あれっと思った。違うのではないだろうか。そう思ってタイトルを読み直す。そうすると「究極の差別」という副題がついていた。読み始めたとき、それを目にしていたはずだが、読み進んでいる内に「どこにも差別なんか書いてないけどなあ」と思い、しだいに忘れていったのだ。そして完全に忘れたころ、最後の四行が突然あらわれる。
 ひとはだれでも「ひとり」である。他人とは完全に違う。違うことを認めて、それからいっしょに生きる方法を探す。「違う」と思わないかぎり、それはひとをひととして認めたことにはならない。これを差別という。
 このことを王が、はっきりと書いてくれたことに、ありがとうと私は言いたい。王が書かなかったら、こういう態度が「差別」であると気がつかないひとが大勢いるのだ。もしかすると「韓国人は韓国へ帰れ」とヘイトスピーチを繰り返しているひとと同じくらい多いかもしれない。「韓国人は韓国へ帰れ」と主張するひとの根拠は「日本に住むなら日本をヘイトしてはいけない(批判してはいけない、ではなくヘイトしてはいけない、と多くのひとがいう)」、つまり「同化しろ」ということである。それは裏を返せば「同化」するなら日本にいてもいい、「同化」したひとだけ受け入れるということである。そして、この「同化」は「日本人になれ」ということである。王の友人は「日本人になれ」とは言わずに「日本人やと思ってた」と言っているが、これは「日本人になっている」と思っていたということなのだ。「花見」に連れていってくれたのも、王が韓国人だからではなく、「日本人なら花見をする」という押しつけだったかもしれない。

 詩から少し離れるが、この「同化」を求める動きは、とても強くなっている。韓国人に対してだけではない。日本人に対しても「同化」を要求する動きがある。
 芸術とは、究極の「個人主義」である。「他人」とは違う表現をすることが「芸術」のはじまりである。それなのに愛知トリエンナーレでは、「自分の考えている日本人のやることではない」という判断で作品が批判され、企画が中止された。
 「天皇を崇拝しなければいけない、肖像を焼くというのは日本人のすることではない」「慰安婦の訴えを聞くことは、日本の歴史を貶めることである」という主張は、そういう批判をするひとたちと「同じ天皇観」「同じ歴史観」を持てということ、「天皇観」「歴史観」において「同化」しろ、ということだ。そしてこの一部の人間の「同化要求」に河村名古屋市長は賛同し、権力は「表現の自由」を侵してはならないという憲法規定を破った。憲法違反をした。
 大浦信行の作品とパフォーマンスは、私から見ると天皇中心主義にしか見えない。「流通言語」で言えば「スーパー右翼」の世界観だが、「スーパー」であるためにそれが理解されず、天皇は崇拝する対象であるという次元への「同化」を強要されたことになる。なんとも滑稽なことである。
 「同化」は、あくまで「同化」を求めるひとと同じ水準での「同化」でなくてはならないのである。

 ここから王の詩にもどって。
 もし王が花見のとき、「和歌」を詠んだとする。そしてそれが古今や万葉の歌をひきついだ「日本の伝統美」としての「和歌」ではなく、新しい美を気づかせてくれた作品だったらどうなるだろう。つまり「同化」を越えて、オリジナルな世界にまで達していたらどうなるだろう。そこには、どうしても韓国人のアイデンティティにつながる表現がふくまれ、その結果として、新しい世界(つまり、それまで日本人が気づかなかった情景)が出現するのだとしたら、どうなるだろう。きっと「違和感」をもって排除されるのではないだろうか。
 「地震」についても同じことが言える。地震は、日本人にとっても怖いものである。その日本人のように「怖い」と訴えるではなく、王が「あ、この揺れが地震というものですか。地球からバランス感覚を試されていると思うと愉快ですね」と言えば、王は「韓国人は、やっぱり日本人とは違う」と排除されたかもしれない。
 王の、友人への対応が、たまたま友人が考える「日本人」の姿と同じだった、王が日本に「同化」していると感じたから、王を受け入れていたというだけのことかもしれないのである。
 友人は、王にどんな傷を残したのだろう。
 「去りゆく」を読むと、最初はわくわくし、最後は寂しくなる。でも、それは王にとっての必然であり、私は望んではいけないことを望んだのだ。私の寂しさは私の必然であり、王の王の必然である。寂しいから母国語で夢を見るのだ。

日本語が降ってきた
雨の日は雨になって
雪の日は雪になって

日本語が流れてきた
太陽が昇ると朝は明るい声で
月が出る夜は優しい声で

人生半ば
初めて耳にした

日本語は時々胸を
凍らせたが
歳月と共に熟れていき

寂しい人に会ったときは
寂しい姿で
悲しい人に会ったときは
涙色で伝わってきた

言葉も歳をとり
私の老いに寄り添い
痩せてきた

夢の中ではもう
母国語だけが
吹雪いている

 ふたつのことばを行き来しなければならない寂しさを抱えながら、それでも王が日本語で詩を書いていてくれている。
 このことに、やはり私はありがとうといいたい。最初の二連の美しさは、日本語だけで育ってきた人間には書けないものだと思う。王が見つけてくれた美しさである。王が日本語につけくわえてくれた美しさである。







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