嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(2) | 詩はどこにあるか

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* (聞きそびれた昨日の言葉は)

聞きそびれた昨日の言葉は
夕空にかかる虹のように美しい

 「聞きそびれた」のになぜそれが「美しい」とわかるのか。「美しい」は断定として書かれているが、ほんとうは「想像」である。美しいと「思っている」(考えられる)。つまり、思うこと、考えることが「美しい」つくりだす。そして思うこと、考えることを具体的にするのが「ことば」である。「聞きそびれたことば」と「ことばを想像することば」が出会っている。それこそ、聞きそびれたことばと嵯峨の「肉体」のなかにあることばが「虹」となって詩のなかに広がっている。
 この現実には存在しない美しさは、詩にとって、魔力である。いつも「嘘」という危険をはらんでいる。だから嵯峨は、その美しさを否定してみせる。

しかしその虹を地上に引き下ろしてみると
それは一条の縄でしかない

 具体的な「内容(意味)」よりも、「その」「それ」と繰り返される指示詞が、嵯峨のことばを動かす力になっている。前に書いたことを何度も意識しなおしている。論理的であろうとしている。その厳しさが、そのまま「美しい」を否定する。「縄」は「虹」とおなじように「比喩」にすぎない。「ことば」を論理が、いや、論理になろうとする力が支配している。

 この詩の構造、前に書いたものを、後で消す(否定する)という視点から、きのう読んだ詩を読み直すとどうなるか。

あらしに吹き折られた青い小枝のような
あなたの言葉で
避暑地の海を掻きまぜてこよう

 海を掻きまぜるとき海が否定するのではなく、もしかすると「青い小枝」を否定しようとしているのではないか。あるいは「吹き折られる」という悲劇的な美しさを否定しようとしているのではないか。そういうことも考えてみる必要がある。そこに、もしかすると嵯峨の抒情の「核」のようなものがあるかもしれない。