嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(1) | 詩はどこにあるか

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嵯峨信之『OB抒情歌』(1988)(1)

                         2019年10月30日(水曜日)

小園

* (あらしに吹き折られた青い小枝のような)

あらしに吹き折られた青い小枝のような
あなたの言葉で
避暑地の海を掻きまぜてこよう

 「青い小枝」が印象に残る。「青い」はほんとうは「緑色の葉がついた小枝」、「若い小枝」ということになる。緑のかわりに青をつかうのは日本語の慣例だ。信号の青もよく見ると緑。「青」を「若い」の意味でつかう例には「青春」がある。
 そういう「無意識」を反映していると同時に、この「青い小枝」は「緑の小枝」「若い小枝」だと最終行がちぐはぐになる。
 「小枝」で「海」を掻きまぜるというのは、ちぐはぐな感じがする。小枝で掻きまぜるのは水溜まりや小川、せいぜいが小さな池だろう。
 でも「青い小枝」の「青」が海の青と重なる。「色」は違うが「音」が同じ。そのことが、ふっと、意識を引きつける。
 もう一度読み直してみると、「あらし」「青い」「あなた」と「あ」の音が響きあっていることがわかる。「避暑地の海」は「青い海」だったかもしれない。「青い」ということばの重複を避けるために「避暑地」が選ばれたのかもしれない。
 「青いあらし」は「青嵐」。このことばは、私には五月を連想させる。五月は避暑の季節ではない。どことなくちぐはぐである。そういうことも意識のどこかを掻きまぜる。
 また、この詩では、嵯峨は実際に避暑地の海を掻きまぜてはいない。あくまで「掻きまぜてこよう」と思っている。「思い」のなかで、いろいろなものが動いている。響きあっている。それは、まだ整えられていない。
 この整えられていない、ということが、もしかすると詩にとっては重要なことかもしれない。整えられてしまうと考えるということがなくなってしまう。
 さらにもう一度詩に引き返す。
 「青い小枝」は「あなたの青い言葉」かもしれない。「若い(青い)ことば」。整えられていないことば。「小枝」と「言葉」は音の重なりを含み、同時に「葉」のイメージも隠し持っている。嵯峨は、「あなた」が発した「詩」によって、「避暑地の海」という「定型」を壊したいのかもしれない。乱してみたいのかもしれない。

 というところから、私は、ことばをどうつづけていけるだろうか。
 いつものように、「計画」を立てずに、私はただ書いて行く。






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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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