高橋順子『さくら さくらん』 | 詩はどこにあるか

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高橋順子『さくら さくらん』(deco、2019年11月04日発行)

 高橋順子『さくら さくらん』の帯に「くうちゃん 詩がおわらないよ」と書いてある。車谷長吉が死んだあとの作品を含んでいる。三部にわかれていて「Ⅲ」に車谷のことが書かれているが、他の作品にも車谷は隠れているだろう。
 たとえば「不幸なお尻」。


お遍路に行ってたくさん歩いたせいで
お尻が小さくなってしまった
歩きやすい体になったのか
椅子に座ると
しっかりした感じがなくなって 寒い
さてはわたしの幸福感はお尻にあったのか
不幸なお尻よ と嘆かずに
また歩こう
こんどは足の裏に幸福をつくる


 「お尻」を「車谷」に置き換えて読むと少し無理があるかもしれないが、「無理」なのはきっと車谷の自己主張(高橋のことばで言えば「甘えん坊」)が強いからだろう。
 とくに、


椅子に座ると
しっかりした感じがなくなって 寒い
さてはわたしの幸福感はお尻にあったのか


 に、そういうことを感じる。甘えられて、まといつかれて、いるときは「うるさい」(邪魔)という感じもするかもしれないが、いなくなると「バランス」がとれない。落ち着かない。「寒い」と体が感じるこころの寒さだ。

さてはわたしの幸福感は「車谷(の存在)」にあったのか

 こう読むと、とても落ち着く。
 このことばに先立つ「椅子に座ると」がとてもいい。「椅子に座る」のは何かをするためではない。何もしないために座る。何かをするために座ると、その何かに意識が集中して、「お尻」には気がつかない。何もしないから、いままで気にしなかった「お尻」の変化に気がつく。何もしないから、車谷の「不在」に気がつく。
 最後の一行は、きっと車谷が「足の裏」になってよみがえってくるという感じだろう。ひとりで歩いているが、ひとりではない。いつもいっしょにいる。そばにいるのでもなく、「足の裏」になって高橋を歩かせる。歩くことが、高橋にとって車谷に「なる」ことなのだ。
 「お尻」と同じように「足の裏」も普段は、それが自分の「肉体」とは気がつかないが、そして「足の裏」は他人に見せるものではないが、人間がそこに立っているとき、とても大切な場所だ。
 それは、「鈴が鳴っている」では、こう書かれている。


リュックの中には遺影と
鈴が入っている
お杖は鈴の紐を切って柩に納めた
お遍路に出て四日目にあなたはわたしと
歩きに来た わたしの杖が
あなたのリズムで地面を叩き始めた
そんなに息せききってわき目もふらず
生きた人 (わたしのことは
とろい女だと思っていただろうな)
あなたの鈴が鳴っている
お四国の空と土に共鳴したのだね
枯れた川の上の潜水橋を
五位鷺の影がうつる堤沿いを
あなたと歩いた 歩いている
いま歩いていて
鈴が鳴っている


 「あなたと歩いた 歩いている」という言いなおしがとてもいい。「足の裏」から「ことば」が立ち上がってきたのだ。

 感想を「意味」として書くことは難しいのだが、「愚かなうた」の「2」の五行に強く惹かれる。


朝の散歩のときハイタッチしていたおじいさんが親指立てて
「このごろ見かけないね」と言うので
「しにました」と答えると
おじいさんはややあって帽子をとり
「よろしく」と言った


 「ややあって」という呼吸、「帽子をとり」という肉体の動き。それから「御愁傷様」というような「定型」ではない「よろしく」ということば。
 どういう意味だろう。
 わからない。
 言ったおじいさんにも、わからないと思う。何か言いたいけれど、何と言っていいかわからない。でも「言わないといけない」という気持ちが、「肉体」の奥から気持ちを追いかけるようにやってきて、気持ちを追い抜いて声になってしまった感じがする。
 高橋は、それにどんな解釈も加えず、ただ、そのまま書いている。
 それは、まだ「意味」にはなっていないが、いつか、きっと忘れたこと「意味」になってもどってくる。「意味」というより「事実」となって、と言った方がいいかなあ。きっと、死んだ車谷がふっと「現実」にあらわれる瞬間のように、ある日、きっと。

 巻頭の「むくげの花」は、高橋と車谷の「自画像」だろう。どちらが「むくげの花びら」で、どちらが「桃いろの蝶」か。区別できないから、とても美しい。


大風が吹いた朝
桃いろの蝶の羽が 窓ガラスにくっついている
羽をひとつなくした蝶はどうしたかしら
となりのむくげの花に宿ったかしら
羽は窓ガラスに張りついたまま干からびていった
もとのお宿はまっ青に葉がしげり
花だったものと蝶だったものは互いにぐるぐる廻って
とりかえっこしてしまう
笑い声が起こって






*

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