「遠近を抱えてパート2」 について(追加)
この作品の印象は先に書いたが、どうにもわからないことがある。
この作品の天皇の肖像は、たしかに昭和天皇をかたどっているが、それは「写真」なのか、それとも「描いたもの」なのか。そして、「描いたもの」だとしたらだれが描いたのか。
作者自身が描いたのだとしたら、この作品は「逃げ道」を用意している。
「天皇の肖像を焼くのは許せない」という批判に対して、「天皇を描いたが、うまく描けなかった。だから失敗作を焼いた」と言い逃れができる。失敗作であっても、天皇の肖像であるかぎりはそれを大事に保存しなければならない、というのはあまりにも無理がある。批判するひとは「しかし、焼いているところを公開しなくてもいいじゃないか」というかもしれない。これに対しては「失敗作をごみとして他人の処理にまかせるのではなく、自分で責任をとって処理していることを明確にするため公開した。自分の作品に責任を持っている」ということもできる。論理はいつでも、どんなふうにでも完結させることができる。論理というのは「後出しじゃんけん」なのである。
こういう「後出しじゃんけん」を用意しているものは「芸術」としては「うさんくさい」ものがある。
そういうところにも、私は、かなり疑問をもつ。
そして、これから書くことは作品そのものとは関係がないが。「天皇崇拝」思想に関する疑問である。
天皇制は正しく言えば「父系天皇制」である。
正妻のこどもであっても女子は天皇になれない。側室のこどもであっても男子なら天皇になる。そこには「男尊女卑」の思想がある。
男子を生んだ側室は、「歴史」にきちんと書かれるかもしれない。正妻の生んだ女子も「歴史」に書かれるだろう。しかし女子を生んだ側室、側室から生まれた女子はどうなるのだろうか。
私は「歴史」にはうといのでよくわからないが、たとえ書かれたとしても「父系天皇制」の脇に追いやられ、名前がふつうのひとの口にのぼるということはないだろう。
「男尊女卑」を前提とした「家」制度が、ここに隠されている。そういう「家制度」をそのまま「理想」として受け入れることに、多くのひとたちは納得しているのか。
とくに「天皇制」を支持する女性は、このことについて「理不尽さ」を感じないのだろうか、と疑問に思ってしまう。
で、先に「これから書くことは作品そのものとは関係がない」と書いたのだが、「男尊女卑」を出発点にして考え直すと、いま書いたことは作品と深い関係を持っている。
この作品では、従軍看護婦の手紙が朗読される。どうも死んだらしいことが暗示される。さらにチマチョゴリを着た韓国女性らいしシルエットが「紙人形」で表現されている。背後に韓国語らしい歌が聞こえる。
女性の死と天皇が結びつけられている。
女性の死は「必然」のように描かれている。
でもそれは「必然」と認めていいのか。
もちろん、戦闘で死んだ男子以外の犠牲者に目を向けさせるためにそうした、という論理は成り立つ。
しかし、やっぱりよくわからないのである。
「論理」というよりも「情緒」を刺戟しているだけなのではないか、という「うさんくささ」が残るのである。
また別の疑問も残る。
私はあるブログで、この作品は「どんど焼きのとき燃やした新聞にたまたま天皇の肖像が写っていたようなものだ」というような感想を読んだ以外には、「批評」を目にしていない。
感想、批評さえも、そこに天皇が登場するのは問題なのか。
天皇について語ることは、なぜ、問題なのか。