粕谷栄市「かなしい動物」。
かなしい動物は、檻のなかにいる。かなしい動物は、
虚ろな目をして、そこに坐っている。一切は、茫漠とし
ていて、かなしい動物は、自分が、どうして、檻のなか
にいるのか、判らないらしい。
かなしい動物は、それでも、その時刻がきて、食べ物
が与えられると、起き上がって、それを食う。
大抵は、椀に入った飯のようなものだが、かなしい動
物は、両手で椀を抱え、顔をいれて、一粒も残すことな
く、それをたいらげる。
たぶん、それだけで、彼の一日は終わるのだ。彼は、
また、床に坐って、ぼんやりしている。
もちろん、そのようにして過ごしても、次の一日は来
るのだ。一日、また一日、そして、また、一日。
書かれていることは、「変化」しない。「かなしい動物」という主語、あるいはテーマは、「ことば」そのものとして何度も繰り返される。途中までの引用だが、何が変わったのかわからない。「かなしい動物」が「いる」とだけ、同じことを書いているように思える。
そして、そう思ったときに気づくのだ。
ひとは、同じことを書ける。同じことのなので、何も書かないというのに似ているが、何も書かないということさえ、書くということができる。
何も書かないまま、そこに何を書くか。
「そこ」「それ」「その」。こうしたことばが「かなしい動物」と同じくらいにくりかえされる。「そこ」「それ」「その」は「指示詞」である。「意識」が指し示すもの。「意識」は「対象」と「自己」とを「指示詞」でつなぐ。あるいは、その間を「指示詞」で埋めていく。
ほんとうに変わらずに「ある」のは、この「指示詞」の「動き」である。
かなしい動物が、かなしい動物と呼ばれるわけを知る
ものなら、かなしい動物が、決して、檻のなかのその一
匹だけでないことを知っているだろう。
後半に出てくるこの部分は「論理」が「意識」と「自己」の間をつないでしまうので、少し異質だが、そのかわりに「かなしい動物」ということばが書き出しと同じようにくりかえされ、くりかえすことで「その」(指示詞)になろうとしている。
人間は、くりかえすことしかできないのかもしれない。
斎藤恵子「ちいさな夜」。斎藤の「くりかえし」は粕谷のものとは違う。死んだ姉が帰ってくる。姉を思い出すというくりかえしだ。その書き出し。
ちいさな夜がおりてきて
満天の星が宙に舞う
なにもかもが美しく思え耳を澄ます
きぃ
枝折戸のひらく音
古い姉は折り紙の着物を着て
紫サルビアの帯を結んでいる
そっとおとずれてくれたのだ
わたしたちは明るい雨に打たれた
紫陽花の茂みのほの暗さが
毬になってはずんでいる
途中に出てくる「きぃ」という「枝折戸のひらく音」。これも、もしかするとくりかえされる「儀式」のようなものかもしれないが、くりかえされる前の「一回かぎり」という印象の方が強い。
「音」は存在しながら、消えていく。なくなってしまう。それが一回かぎりを浮かび上がらせるのだろう。
ここから粕谷の詩にもどってみる。粕谷の詩に「一回かぎり」はなかった。
「一切」「一粒」「一日」と「一」をつかったことばがくりかえされる。そして、そのうちの「一日」は、
もちろん、そのようにして過ごしても、次の一日は来
るのだ。一日、また一日、そして、また、一日。
と書かれる。同じ一日か、違った一日か。わかっていることは、その前に書かれる、
彼の一日は終わるのだ。
「終わる」。この動詞が、「一日」を「一日」にするということ。同じか、違うかは問題ではない。大事なのは「終わる」。つまり、なくなるということだ。ある、あった、けれどなくなる。それがくりかえされる。
斎藤の書く「きぃ」に似ている。
姉は必ず「きぃ」という音を「印」に帰ってくる。それは姉の「印」そのものだが、それはくりかえされても、そのとき「一回かぎり」である。
「一日」は、いつも「一回かぎり」だ。「その」でどれだけつなぎとめようとしてもつなぎとめられない。だからくりかえし書いても、くりかえしにはならない。いや、くりかえしに「なれない」。
「かなしい動物」の「かなしい」は、くりかえしてもくりかえしても、「それ」になれない「一回かぎり」として存在してしまうことだ。人間は「それ」というように、指し示せばいつでも「ある」ものにはなれない。粕谷は「ある」必要はない、と書いているのかもしれない。
あるいは「ある」になってしまうと書いてもいいのかもしれないが、そうすると、こんどは私が「くりかえし」のなかに引き込まれてしまう。
粕谷のことばは、私にとっては、ベケットと似ている。ブラックホールに似ている。引き込まれ、そのなかに消えていくだけだ。「重力」というものだけが存在する時間だ。
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