嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(84) | 詩はどこにあるか

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* (夜は雨になつた)

若い日は蓼のように匂う
待つということは少しの時も過ぎさることがない

 「蓼(たで)」は田舎ではよく見る草である。私は匂いを意識したことがない。嵯峨は匂いを嗅いだことがあるのだろう。どんな匂いか、私は言うことができないのだが、「若い日」を「匂う」という動詞でとらえているのがおもしろい。これは「匂いを発する」というくらいの意味だろう。つまり、何もしなくても内部からあふれてくるものがあるのが「若さ」。
 そういうものを肉体に抱え込みながら「待つ」。その「待つ」を「時が過ぎさることがない」と別の角度からとらえなおす。「時」は「蓼の匂い」のようにあふれていかないのか。そうではなくて、あふれてもあふれてもなおかつなくなることがない。
 なくならないもの(過ぎさることがないもの)が「ある」と書いている。




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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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