嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(57) | 詩はどこにあるか

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* (死は通過する)

そのとき子供が鋭い叫びごえをあげた
無垢な呪いのきびしさにひとびとは竦然とする

 「死は通過する」。そのことに大人は気づいたか。あるいは逆に、そのことを知っていたか。知っていて、その瞬間を待っていたと読みたい。
 子供には、その認識はない。認識するのではなく、子供は「直感」する。何かしらないことが起きる、と。そして「叫びごえをあげる」。泣きだすのかもしれない。
 これを嵯峨は死への「呪い」と受け止め、「きびしさ」と受け止める。怒り、抗議を通り越して、「呪い」にまで達してしまった「感情」。
 「呪い」は「呪う」と動詞にして読むと、もっと生々しくなる。子供は(赤ん坊は、と読みたい)、死を呪う。それが、やがて自分にもやってくることを「認識」ではなく、直接的な「事実」としてつかみ取っていることになる。





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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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