嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(41) | 詩はどこにあるか

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* (ぼくが記憶のなかで)

ぼくが記憶のなかで失つた多くの路上を
いまだれかが歩いているだろう

 「記憶のなかで失つた」という表現が意識を覚醒させる。「忘れる」とは違う。「記憶」そのものはあるのだが「路」がない。でも、記憶は「ある」。
 だからこそ次の行の「歩く」という動詞が可能になる。動くことができる。
 疑問に思うのは、なぜ「多くの」路上なのだろうか。この「多く」は「路」を指しているのか。それとも「長さ」を「多く」と言いなおしているのか。さらに二行目の「歩いている」のはひとりなのか。「多く」は「歩いている」ひとを間接的に修飾しているのか。
 ひとは「多く」のものをなくす。けれどなくしたと意識するのは、「ひとつ」ではないだろうか。そういう疑問も残る。









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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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