水に溺れながらきいた鐘の音は
死体になると
どちらの耳から空へ帰るのだろう
「死体になる」は「死ぬ」。しかし、嵯峨は「死体になる」と書く。その「死体」があるから、次の行の「耳」がリアルになる。「死ぬ」という動詞では「耳」が唐突に感じられるだろう。つまり「耳」に特化するための「物語」が必要になる。
「耳」がリアルだからこそ「どちら」もリアルになる。
そして「空へ帰る」という動きを印象の強いものに変える。「空想」ではなく「事実」に帰る。「空想」が「事実」になる。
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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
オンデマンドで販売しています。100ページ。1500円(送料250円)
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