塩を大きな袋に詰めながら
ひとりの男が唄つている
唄は男の仕事(塩を詰める)と関係があるか。たぶん、ないだろう。「作業唄」ではなく、男がふと思い出す唄を思う。
「唄う」という動詞は、どう言うことだろう。
もし唄わずに、おなじことばを話していたら、この男はとても風変わりに見えるだろう。
唄う人は人を安心させる。
唄うというのは、その人の何かを解放すると同時に、聞く人にその解放を伝えるものかもしれない。
しかし、そういう感想を裏切るように、この詩は、こうつづいている。
魂の外に出ようとするとそこにながれているのは死の唄だ
いつもとは違い「魂」と嵯峨は書いている。
「魂しい」と「魂」を嵯峨はつかいわけているようだ。
概念としての「魂」、嵯峨の実感としての「魂しい」と考えることができる。
概念の外には「死」が存在する。死んだあと、肉体を「魂」が抜け出すということを人は言うが、肉体をのがれた「魂」は「肉体の死」、あるいは「死の肉体」を目撃することになるのか。
私は「魂」の存在を実感したことがないので、こういうことについて書くのは、どうもこころもとないが、嵯峨は「魂」を「死」と結びつけ、「魂しい」と「生(いのち)」と結びつけているのではないかという気がする。
「魂しい」という書き方をすれば、たぶん「死」はこの詩に登場しなかっただろう。つまり、違う詩になっていただろう、と思う。
単なる「直感」だが。
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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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