嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(27) | 詩はどこにあるか

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* (歩いても)

雨になつた
そのときぼくにははじめてわかつたのだ
死んだあとの静かな土地には
地名が消えていることを

 「雨になつた」という一行は、それにつづくことばを導き出すためのものだが、とても印象に残る。後半の「意味」の重いことばと向き合って屹立している。
 「なる」という動詞の強さによるものだろう。
 「なる」があってはじめて「消える」が効果的だ。
 「消える」の主語「地名」は、やはり何かが「地名」に「なった」ものなのだ。

 この四行の先立つ連に、次の行がある。

永遠と一日とのあいだを行つたり来たりしているのだろう

 「永遠と一日」からは「永遠+一日」(永遠よりも、もう一日長い)という感じを思い浮かべてしまうが、嵯峨は対比してつかっている。
 この対比を借用すると、「雨になつた」は「一日」、「地名が消える」は「永遠」なのかもしれないが、「雨になつた」が「永遠」、「地名が消える」は「一日」と読んでみるのも刺戟的かもしれない。





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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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