嵯峨信之『土地の名-人間の名』(1986)(12) | 詩はどこにあるか

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* (人を愛するとは)

人を愛するとは
どこにもない泉を知ろうとすることだ
光る水面とぼくの影のゆらめきのなかにただ一言を聞くことだ

 「人を愛することは」ではなく「人を愛するとは」。そして、それを受けることばは「知ろうとすることだ」「聞くことだ」。
 「こと」ということばが差し挟まれている。
 「愛する」は動詞。「こと」は名詞。動いているものを固定化しようとする。この困難さというか、矛盾のような「齟齬」は「遠い」と言いなおされる。

しかしどこまで行つてもその泉は遠い

 「ない」ものに、「遠い」「近い」の差はない。けれど嵯峨は「遠い」と呼ぶ。愛するときだけ「遠い」ものが近づいてくる。動詞のなかにだけ、やってくる。
 それは「こと」と呼べるもの、「名詞」ではない。

 「その泉」の「その」も動詞の一種かもしれない。指し示す動きがある。「愛する」もある対象に向けての動きである。


















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詩集『誤読』は、嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で書いたものです。
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