池澤夏樹のカヴァフィス(142) | 詩はどこにあるか

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142 一九〇九、一〇、一一年の日々

 ひとりの少年がいる。極貧の水夫の息子だ。


息子である彼は金物屋の店員、着るものはみじめで
履いた靴はぼろぼろ、
手は錆と油にまみれていた。

何か特別なものが欲しくなる。
ちょっと値の張るネクタイ、
日曜日のためのネクタイ。
あるいは飾り窓で見て熱望する、
青いきれいなシャツを。
するは彼は、夜、店が閉じてから
半クラウン銀貨一、二枚で身を売る。

彼は自分に問う、壮麗な古代アレクサンドリアに
かくも美貌の、かくも完璧な少年はいたか、と。


 少年はつまり「美貌」のために身を売る。「美貌」であることを知らせ、認められるために。彼の欲望はエロティシズムとは少し違う。「羨望」をこそ身にまといたい。彼が「値の張るネクタイ」「青いきれいなシャツ」を熱望したように、他人から「値の張る」「きれいな」少年と見られたい。そして熱望されたい。
 しかし少年、は知っているだろうか。彼が引き立つのは、値の張るネクタイや青いシャツのためではない。むしろ、極貧の暮らし、惨めな服装。手(肉体)を汚す「錆と油」のためだ。汚しても汚しても、それをはじき返す美しさ。それは、美を見抜く少年自身の本能のなまなましさと言い換えることができる。
 詩人が書きたいのは「対比」である。汚しても傷つかない欲望の美しさである。


みすぼらしい金物屋でこきつかわれ、
いじめられ、安っぽい放蕩のうちに
その美貌はすりきれる。


 詩は、そう閉じられるが、ここでも「美貌」は、それを否定するものによって輝く。


 若き日の美貌が失われるというのはカヴァフィス好みのテーマのひとつだった。


 池澤は、そう註釈している。 



 


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