134 あなたは理解しなかった
頭が空っぽのユリアヌスが我らの信仰について
こう述べた--「読んだ、理解した、
退けた」。愚かにも彼は我らがその
「退けた」ということばで降参すると思った。
この種の機知は我らキリスト教徒には通用しない。
即答しよう。「読まれたが理解されなかった。
理解したら退けるはずがないのだから」。
二連目の「機知」は、訳詩を読んだだけではわからない。だから池澤は一連目の「読んだ、理解した、/退けた」について註釈をつけている。原文はギリシャ文字が含まれているので、趣旨を要約の形で引用すると……。
この三つの動詞は(カタカナで書けば)「アネグノン、エグノン、カテグノン」と韻を踏んでいる。そして、言葉の成り立ちとしては「アネグノン(知る)」の前に「上へ」「下へ」という意味の接頭辞をつけると、「理解した」「退けた」になる。対になっているとも言えるが、しかし生成された語意は大きく異なる。
「上に置くに値すると知った/評価した/理解した」「下に置けばいいと知った/評価しなかった/退けた」と読み解けば「語意は大きく異なる」とは言えないと思うが、ようするに「機知」とは「韻を踏む」ことである。「韻」のなかに「意味」を交錯させる。瞬間的にことばとことばを渡って、意識が動く。遊びの中で「真実」をつかむ。
だから、この「機知」とは、一連目の「言葉で降参する」(言葉で言い負かす)を言いなおしたものであることがわかる。
キリスト教徒はユリアヌスをばかにしているが(批判しているが)、カヴァフィスは逆だろうと思う。「韻を踏むことば」に詩を感じ、それを評価している。そしてその刀で「機知は(彼ら)キリスト教徒には通用しない(理解できない)」と間接的に語る。
さらに池澤は書いていないのだが、ユリアヌスの「機知」が「韻を踏む詩」なら、キリスト教徒の「機知」は「論理」である。「理解した(上に奥と値すると知った)」なら、それを「下に置く(退ける)」ということばを言えるはずがない。ギリシャ語ではどうなっているかわからないが、池澤の訳文の「……のだから」は「論理(散文)」のことば、ことばの運動を整え、「結論」へと動いていくことばである。
詩と散文が「対」になっている。シェークスピアの「ジュリアス・シーザー」の「演説」の対比のようなものだ。「対」のなかに「劇」があり、「劇」のなかに真実がある。
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