池澤夏樹のカヴァフィス(130) | 詩はどこにあるか

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                         2019年04月28日(日曜日)
130 一八九六年の日々

 「彼の名誉はすっかり地に落ちた。」と始まる。「性的な傾向がその理由だった。」と説明した後、


世間というものはまこと了見が狭い。
やがて彼は持っていた僅かな金を失い、
社会的な地位を失い、評判を落とした。
三十歳近いというのに一年と続いた職がなかった。
少なくともまっとうな職はなかったのだ。
時には恥知らずと見なされるような取引の
仲立ちで稼いでその場その場を凌いだ。
一緒にいるところを何度か見られたら
その相手も悪評を被るような、そんな男になった。


 この素早い描写がとてもいい。ことばのスピードに詩がある。
 特に「少なくともまっとうな職はなかったのだ。」と書いた後、それを「時には恥知らずと見なされるような取引の/仲立ちで稼いでその場その場を凌いだ。」と言いなおす、その反復の切り詰めたスピードがいい。
 散文(小説)だと、実際に「仲立ち」のシーン、金のやりとり、あるいは「商談」が描かれる。当然、そこには「彼」以外の人間が出てきて、動く。他人の動きとの対比の中で「彼」の姿が鮮明になる。
 詩は、そういう余分を必要としない。むだを省いて「音」を響かせる。
 この一連目を受けて、二連目は「しかし話をここで終えてはならない。それは不公平だ。」という行から、「彼」の「美しさ」が語られる。
 このこと対して、池澤は、


 ものごとの評価の二面性を前半と後半で鮮やかに対比させる作品である。


 と書いている。
 たしかに対比させているが、後半は他のカヴァフィスの作品と似通っている。
 おもしろいのは、やはり前半だ。先に描写のスピードについて書いたが、このスピードは「世間(の了見)」のスピードである。言い換えると「紋切り型」、さらに言い換えると「常套句」。カヴァフィスは、ほんとうに「常套句」に精通している。シェークスピアだ。「常套句」というのは、世間の中を何度も何度も通り抜け完成されたもの。だから、そこには世間が凝縮している。「恥知らず」というひとことで、それがどんなものか、世間の読者は一読して「具体的」に納得する。どんなに「抽象的」に書いても、「具体的」になってしまうのが「常套句」の力だ。



 


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