池澤夏樹のカヴァフィス(126) | 詩はどこにあるか

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126 司祭と信徒の大いなる行進


街路を、広場を、城門を
それぞれの暮らしぶりを映した姿で練り歩く。
堂々たる行列の先頭を行くのは
見目よき白衣の若者が
両の腕を上げて掲げた十字架、
我らの力、我らの希望、聖なる十字架。


 「街路を、広場を、城門を」という畳みかけるリズム、それに呼応して響きわたる「我らの力、我らの希望、聖なる十字架」のリズム。この直前には「見目よく白衣の若者が/両の腕を上げて掲げた十字架」という長くてうねるようなリズムがある。このうねりが、うねりであることをこらえきれずに炸裂して「我らの力、我らの希望、聖なる十字架」になったことがわかる。
 カヴァフィスは、やっぱり耳の詩人だ。
 原文を読まずに(ギリシャ語の音を聞かずに)、こういうことは乱暴かもしれないが、「音」には二種類ある。物理的な音と、意識の音。ギリシャ語を聞いていないのだから、物理的な音はわからない。けれど、ことばの運動が明らかにする意識の音なら翻訳されたもの(日本語)でもわかる。私が聞いているのは、「意識の音」だ。
 対象をつかみとり、つなぎあわせ、世界に作り替えていくときの「意識」が聞いている「音」、「意識」が出している「音」。「音のスピード」が正確だ。乱れない。
 カヴァフィスとは異質の音だが、私は西脇にも「意識の音楽」を感じる。「物理的な音」も西脇の場合は美しいが、「意識の音」が「ほんもの」を感じさせる。まるででたらめを書いているようなのに、「手触り」がある。もちろん「意識の手触り」であるが。
 前半の「豪華」なリズムに対して、後半は対照的だ。


年ごとのキリスト教の祭礼だが
今年はまた格別に華やかだ。
帝国はようやく解放された。
神に背いた忌まわしいユリアヌス帝は
もういない。


 「華やか」ということばがあるにもかかわらず、聞こえてくるのは寂しい音楽。この寂しさは、カヴァフィスがユリアヌスに肩入れしていることを感じさせる。
 池澤の註釈によれば、


カヴァフィスはこの異端の皇帝について七篇の詩を書いている--



 


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