池澤夏樹のカヴァフィス(113) | 詩はどこにあるか

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113 彼は読もうとした


彼は読もうとした。歴史家や詩人の本など、
二、三冊が開いて置かれていた。
しかし読書はせいぜい十分しか続かなかった。
そこで諦め、ソファーで眠りに落ちた。


 こうはじまる詩に、池澤は、


激しい官能の午後を過ごした美青年の夜の一シーン。


 と註釈している。どうも納得がいかない。詩の後半は、こうである。


その日の午後、エロスが
彼の理想の肉体を、その唇を
通り過ぎて行った。
エロスの熱が愛の肉体を通り過ぎた、
快楽の形についての愚劣なためらいなど知らぬ顔で。


 池澤は、午後のことを思い出していると読んでいるのだが、カヴァフィスは時系列通りに書いているのではないだろうか。
 朝、あるいは昼飯後かもしれないが、読書しようとしたが、続かず昼のうたた寝をしてしまった。そのあと、エロスを体験した。街へ出かけたのか、だれか訪ねてきたのか。
 夢のなかから、あるいは本のなかから、だれかが抜け出してきたのかもしれない。
 それは「現実の人間」というよりも、そこに描写されていた「人間の行為」が抜け出してきたのである。本に書いてある通りに、青年は、伝統のエロスを味わった。いや、味わったというのは違うか。だれかが本に書いてある通りに青年を味わった。だれかの官能が通り過ぎた。青年はだれかが与えてくれたものに酔った。
 この「午後の夢」は夜の夢よりも官能的だ。
 池澤は、


このような情景の切り取りかたに映画芸術の影響を読み取るのは無理だろうか?


 と書いている。「映画」というよりも、「メタ文学」だろうと思う。本に書かれていることが現実になり、その現実が再びカヴァフィスの手によって詩にもどっていく。
 映画的なのは、カヴァフィスよりも、もうひとりのギリシャの詩人、リッツォスだろうと私は思う。


 


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