イングマール・ベルイマン監督「ファニーとアレクサンデル」(★★★★★)
監督 イングマール・ベルイマン 出演 ペルニラ・アルビーン、バッティル・ギューベ、アラン・エドワール、エバ・フレーリング、グン・ボールグレーン
最初に見たときはクリスマスのシーンにただただ圧倒された。あとにつづく陰鬱なシーンはせっかくのクリスマスシーンを台なしにするようで、無残な気持ちがした。でも、再び見ることができて、発見が多かった。
いちばんの発見は、時間の処理である。特に二部に入ってからがびっくりしてしまう。
かけはなれた場所で起きるできごとを、カメラを瞬時に切り換えて映し出して見せる。(もちろん、これは編集、ということなのだが。)そうすると違った場所なのに、それが同じ時間に起きていることになる。実際に同時に起きていることがあるかもしれないが、そういうことはかけはなれた場所でのできごとなので、誰にもわからない。
しかし。
記憶というのは、かけはなれた時間も場所も「いま/ここ」のように整えてしまう。「あのとき、ここではこういうことが起きていたが、あそこではああいうことが起きていたのか。そして、これとあれは、完全につながっていたのか」と言う具合に。
この映画のひとつのクライマックス。アレクサンデルが人形工房で迷子になる。幽閉されている男の部屋に招き入れられ、その男と話をする。男はテレパシーのようにアレクサンデルの頭の中をことばにしてみせる。そのとき、教会では、ほとんど寝たきりの女性がランプを倒して、それが衣服に燃え移り、火まみれになって部屋を飛び出す。男の語っていることばにつづいてそういうシーンが映し出されると、まるでアレクサンデルの願望がそのままかけはなれた場所で実現されているようにも見える。
でも、これは正確に言いなおすならば、その事故を警察が母親に報告にきたのをアレクサンデルが聴いて、あ、きのうのことばは、こういうことだったのか、と整えた結果だろう。幽閉されていた男が語ったことばは、抽象的で、現実的な描写ではないのだから。
ことばが先にあって、現実があとからやってくる、というよりも、ひとはことばによって現実を整える。そのとき、時間や場所は「距離感」をなくして凝縮する。「追憶」のなかで世界は緊密に結びつき、より濃密になる。
アレクサンデルの父親が、ハムレットの「亡霊」の練習をしていて、倒れる。それは事故なのだが、その後、母が再婚し、新しい父が世界を牛耳はじめると、まるで「ハムレット」の世界がそのまま現実になったように思える。幼いアレクサンデルには、そうとしか思えない。復讐心がわく。父の「亡霊」も見える。
クリスマスシーンも濃密だが、その後の陰惨な物語もまた濃密である。いつまでたっても終わらないのじゃないかと錯覚させる。
映画の中で、アレクサンデルの祖母が「子どものときの、終わらないのじゃないかと思う濃密な時間」というようなせりふをちらりともらす。ファニーが「クリスマスの晩餐は長いから嫌い」とつぶやく。子どもにとっては、どの時間も非常に長い。(小学生のとき、夏休みは永遠に終わらないんじゃないかと思うくらい長かったなあ。)その長い時間、濃密さが、この映画の中に、そのまま動いている。
「野いちご」もそうだが、「追想」なのだからストーリーはある。初めがあって、終わりがある。けれど、そこにあるのはストーリーではなく、ストーリーを突き破って動いていく人間の存在の充実だ。アレクサンデルの叔父の大学教授(?)夫婦のやりとり、夫婦げんかなど、アレクサンデルにとっては何の関係もないようなものだが、その存在が「思い出」の奥で、ほかの人間といっしょになって動いている。こういうことも、きっとあとから「あのとき、こういうことがあったんだよ」と聞かされ、ひとつのストーリーになっていくんだろうけれど。
登場する人間のひとりひとりが、むごたらしいくらいに生々しい。
それにしても、と思う。
デジタル化された映像はたしかに美しい。しかし、デジタルでこれだけ美しいならフィルムはもっとつややかで美しいだろうと悔しくなる。フィルムを劣化させずに残す方法はないのだろうか。
(2019年03月21日、KBCシネマ1)