池澤夏樹のカヴァフィス(91) | 詩はどこにあるか

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91 まことみまかられしや


フィロストラトスの著述にかかる
「ティアナのアポロニオス伝」を読んだ後、
みすぼらしい家の中でこう夢想したのは
数少ない異教徒の一人、
残ったほんの数人のうちの一人。しかも(この地味な
気の弱い男)、公式にはキリスト教徒で、
教会にもきちんと通うのだ。


 「こう夢想した」の「こう」の内容は、引用から省略した詩の前半部分。
 ひとはなぜ夢想するか。
 あるいは逆に考えるべきか。
 なぜ、夢想だけを書いて終わりにできないのか。
 カヴァフィスは「夢想する人間」を描写している。夢想するとき、ひとは「いまある自分」と「夢想」に分裂するが、この詩のなかでその夢想するひとは「自分を偽装している」。「偽装された自分」と「偽装する自分」に分裂する。
 キリスト教徒を装う、異教徒。
 この不思議な分裂は、さらにつづく。


ユスティヌス帝の信仰篤い統治が
その極に達し、アレクサンドリアという
神の都がみじめな偶像崇拝者を
忌み嫌っていた時代のことである。


 夢想するひとはカヴァフィスではない。カヴァフヘスは夢想するひとを想像して書いている。虚構でしか語れない自己を書いているとも言える。そして、そういう人間を書くのは、人間を書くためというよりも、理想のアレクサンドリア、アレクサンドリアの理想を描くためだ。
 詩の最後が、そう語っている。

 池澤は、こう註釈している。


 ティアナのアポロニオスにはイエス・キリストと共通する面が多い。これは偶然ではなく、キリスト教の隆盛に対して意識的にアポロニオスを立てた人々がいたからで、彼の伝記は反福音書として読まれた。この詩がユスティヌスの時代に設定されているのは重要な伏線である。