池澤夏樹のカヴァフィス(32) | 詩はどこにあるか

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32 危険


《理論と研究を通じて強化された者であるわたしは
臆病者のようにおのが情熱を恐れはしない。
この肉体は快楽に手渡そう、
また夢に見た楽しみの数々に、
あるいは大胆な恋の欲望に、
そして放恣きわまる我が血の衝動に。


 意味はわかるが、こころをそそられない。「肉体は快楽に手渡そう」と書いてあるが、「快楽」が意味になってしまっている。
 池澤の訳は正しいのだろうけれど、几帳面すぎて、快楽が見えてこない。快楽というのは意味を超えてしまうものだと思う。池澤のことばを読むと、快楽は意味に支配されてしまっている。ことばの響き、リズムに「快楽」がない。
 「強化された者であるわたし」という、理屈っぽい言い回し(関係代名詞を含む文章を、後ろから訳していく受験栄枯のような表現)が全体を支配している。


恐れることは何もない、なぜならその気になれば--
(略)
禁欲的な我が魂を見いだせるだろうから。》


 「なぜなら」というのは「論理」のことばだ。ここに「理論と研究」があらわれている、といえばそれまでだが、整然としすぎている。矛盾がない。
 池澤は「なかば異教徒、なかばキリスト教徒」(引用では省略)に注目して、登場人物(詩の話者)であるミルティスとカヴァフィスを結びつけてこう書いている。


このミルティスのような狡猾な考えかたもあったろうし、カヴァフィスは必ずしもそれを退けてはいない。


 たぶん私と池澤では詩(あるいは文学)への向き合い方が違うんだろう。私は小学生の感想文の「定型」そのままに、もし私が主人公であったなら、と思って読む。
 この詩なら、そうか「理論と研究」を重ねれば、どんな快楽でも手に入るんだな。理論も研究も充分じゃないから、快楽や大胆な恋におじけづくんだな。この主人公はうらやましいなあ、と感じたい。
 「感じたい」と書いたのは、池澤の訳では、カヴァフィスの書いた「快楽」「大胆な恋」が絶対的な魅力としては迫ってこないからだ。「放恣きわまる我が血の衝動」というのは、ことばが論理的すぎて、つらい。三島由紀夫でもこう書かないかも。




 


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