池澤夏樹のカヴァフィス(26) | 詩はどこにあるか

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26 ことの決着


 ことがうまくいかない、という場合に対してなぜカヴァフィスはこれほどの関心を示したのか。(略、父の失敗を)聡明な子供はそれをじっと見ていて、長じてからの地味で平穏な生活の中でそれについて思索を重ねたのかもしれない。


 これは注というよりも池澤の感想だろう。
 私が興味を持ったのは、次の部分の対比だ。


いや違う、まちがいだ、危険など路上にない。
つまりは誤報だったのだ、
(あるいは聞きおとしか、勘違いか)。
その時、思いもかけなかった別な災厄が
いきなり、猛然と、目の前に降って湧く。
なんの用意もなく--その暇はもうない--我々は足をすくわれる。


 最後の行の「その暇はもうない」がとても印象的だ。
 その直前は、「いや違う、まちがいだ、」と考えている。「あるいは」ということばを使いながら「聞きおとしか、勘違いか」と言いなおしている。そういう「時間」はある。最後の部分は、いろいろ思う「時間(暇)」はない。「時間」を「暇」と言いなおしていることになるのだが、これは逆に、先の言い直しが「暇」だから、そういうことができたということを意味する。
 一方で、「暇はない」と言いながら、「暇はない」という時間はあったのか。というのは意地悪な揚げ足取りで、この奇妙な矛盾のなかに、詩がある。「その暇はもうない」という回り道をすることで「なんの用意もなく」が強調される。「その暇はもうない」がなくても「意味」は通じるが、「なんの用意もなく」ということばは見落とされてしまうかもしれない。「足をすくわれる」という肉体的事実(比喩だが……)だけが記録され、「心理」が軽視される。カヴァフィスの書きたいのは、心理、こころの動きなのだ。心理こそが「真理」ということだろう。

 心理とか、真理とかは、その瞬間にもあるが、時間が経ってからゆっくり「客観化」すると、よりはっきりわかる。カヴァフィスが「過去(歴史)」を題材にするのは、こころの動きを「事実」(客観化したもの)として見つめなおしたいからなのか。
 この詩も「危険」「災厄」を「恋」と読み替えるとおもしろいと思う。あの街(路地)へ行けば恋人が見つかる。そういう噂だったが、見つからなかった。あきらめたとき、突然「運命」があらわれる。恋に落ちてしまう。こころをつかまれてしまう。そのときのこころの動きと思って、読んでみたい。





 


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