池澤夏樹のカヴァフィス(9) | 詩はどこにあるか

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9 ……オオイナル拒否ヲナシタル者


 題は『神曲地獄篇』の第三歌第六〇行から取られている。点線の部分は“per vilta (怯懦ユエニ)”であるが、カヴァフィスはことを一般化するためにこれを故意にはぶいた。『神曲』の中ではこれは自信のなさゆえに教皇位をボニファキウス八世に譲ったケレティヌス五世を指すと解釈される。


 池澤はこう書いているのだが、これでは『神曲』の解説になってしまわないか。「一般化するために」というのも、よくわからない。詩は「一般的」なことを書くものではない。むしろ個人的なことを書くものだ。


また拒否するだろう。しかしその--正しい--拒否が
彼の一生をだいなしにしてしまうのだ。


 「怯懦」の意味はなかなかむずかしい。池澤は「自信のなさゆえに」と言いなおしている。「自信のなさ」は、臆病とか、気が弱いというふうにとらえることができる。
 私は、こう読む。
 「正しい」と「怯懦」を結びつけるなら、気が弱いので拒否することを「正しい」と判断したということだろう。拒否しなかったら「正しくない」と批判されるかもしれない。そう恐れて、世間的に「正しい」と言われている方を選んだ。
 でも、それが一生を台なしにした。
 これをカヴァフィスの「恋」と結びつけて読み直すとどうなるだろうか。
 カヴァフィスは「恋」を拒否したことがある。その恋が「正しい」恋とは呼ばれないものだからである。もし、その恋を拒まなかったら、一生はもっとすばらしいものになっていたかもしれない。そんなふうに後悔しているのではないのか。
 拒否したから、「間違っている」という批判は受けなかった。「正しい」人間と判断された。でも、それでよかったのか。運命の出会いを棄ててしまったのではないのか。カヴァフィスは、そういう思いを『神曲』を借りて語っている。
 いまでも同性愛は完全に受け入れられてはいない。「正しい」恋とは呼ばれることは少ない。カヴァフィスの生きた時代なら、なおさらである。
 ケレティヌス五世の心境を語るために、詩を書いたとは私には思えない。



 


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