池澤夏樹のカヴァフィス(3) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

3 アキレウスの馬


死にも老いにもわずらわされぬおまえたちが
たまさかの災厄におびえるとは。人間どもの
苦労におまえたちが巻き込まれるとは」--けれども
二頭の高貴な動物たちが沛然と涙を流し続けたのは
死というの永遠の災厄を思ってのことだった。


『イーリアス』を下敷きにした詩の、終わりの三行について、池澤はこう注釈をつけている。


馬たちがパトロクロスその人の死を嘆いて泣いたのではなく、人間すべてに課せられた死というさだめに同情して涙を流したのだという部分は、カヴァフィス独自の考えであって『イーリアス』にはない。


 この注釈がないと、どこまでが『イーリアス』で、どこからがカヴァフィス独自の考えかわからない、ということなのだろう。
 しかし、こういうことは、わかる必要があるのだろうか。
 『イーリアス』を下敷きにした部分にはカヴァフィスの「考え」は含まれていないのだろうか。そんなことはない。どこを省略するかは、どこを強調するかと同じ意味を持つ。省略と強調の運動の結果、ひとつの「考え」が浮かび上がるとき、それはカヴァフィスの「考え」であると同時に『イーリアス』の「考え」でもある。
 カヴァフィスの「考え」を「誤読/拡大解釈」と指摘することはできる。『イーリアス』はほんとうは違うことを語っていると指摘することはできるかもしれない。けれども詩は(あるいは文学は)、「正しい解釈」のとも生きると同時に、「誤読」によっても生き続ける。
 池澤は、「正しい」と「誤り」を示そうとしているわけではないのだが、私は、こういう指摘には何か「つまらない」ものを感じる。教えられて、詩がおもしろくなる訳ではない。
 私はむしろ、池澤はこう読んだという「誤読」の方を読みたい。

 「新約聖書」はキリストの目撃証言である。証言者によって、内容が少しずつ違う。ことばが違う。そして違うからこそ、キリストが本当にいたのだという証明になる。証言者が違えば、証言のことばに違いが生まれるのは当然のことである。違いがなければ、それは証言ではないだろう。
 同じように、詩の感想が「同じ」ものになってしまえば、その詩は最初から「意味」を押しつけていることになる。そういうものはつまらない。