高橋睦郎『つい昨日のこと』(144) | 詩はどこにあるか

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144 きみに


このところ詩が降りてこない と きみはぼやく
最初から降りてこなかったんだよ きみのところには


「きみ」が誰を指すのか、わからない。批判はつづく。


降りてこないのには じつは確かな理由がある
理由というのは外でもない きみの中がきみでいっぱいだから
かりに降りてきても 詩はきみの中に入りこみようがない


 ここからは「詩」というものが「きみ」とは「異質」のものであることが推測できる。「異質」ものものは「きみ」という「同質」のもののなかに入り込めない、と。
 そういう「論理」よりも私は「理由というのは外でもない」ということばにつまずいた。このことばはなくても「論理(意味)」は通じる。

降りてこないのには じつは確かな理由がある
きみの中がきみでいっぱいだから
かりに降りてきても 詩はきみの中に入りこみようがない

 ない方が、ことばのスピードが速い。早く「結論」に到達する。論理の経済学からいうと不要のことばである。でも高橋は書いた。なぜか。「理由」を強調したかったからだ。「理由」の内容(意味)よりも、理由が「ある」ということを強調したかったからだ。
 こういういう「強調」は次の部分にも感じられる。


自分をからっぽにしなきゃ 詩は入ってこないさ
まず きみ自身をからっぽにすることを憶えなきゃ
でも どだい無理だよね きみは最初の最初から
きみでいっぱいだから きみだけでいっぱいなのが
きみなのだから もともと詩なんか必要じゃないんだよ


 「最初の最初から」「きみでいっぱいだから きみだけでいっぱいなのが」。同じことばの繰り返し。「論理」そのものからいうと重複は不経済である。学校の「散文」なら重複を削除させられるかもしれない。
 けれど詩は「論理」ではない。
 むしろ、こういう無駄(過剰)こそが詩なのだ。意味を超えて、高橋は、「きみ」が嫌いだったということがわかる。