高橋睦郎『つい昨日のこと』(142) | 詩はどこにあるか

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142  この詩は


これは自分が書いた詩だ と自信をもって言えるのか
ほんとうは 自分ではなく誰かが書いたのではないのか
よしんば書いたのは とりあえず自分だったとしても
じつは 見えない誰かに書かされたのではないのか
だからこそ くりかえし読み返すのではないのか


 「この詩」「これ」ということばがつかわれているが、それが実際に「どれ」を指しているかは書かれていない。しかし、詩一般についての「認識」が書かれているのではなく、固有の「自分が書いた詩」を指している。
 「固有」とは、ことばにしてしまうと簡単だが、単純なことではないかもしれない。「固」と呼ぶとき、そこには同時に別のものが存在する。「他」の存在によって「固有」になる。
 常に対比があり、その対比の中で揺れている。
 それはかなえられない夢(理想)と、逃れられない現実を浮かび上がらせる。
 その対比のなかへ踏み込んでいけば(ギリシアの集中力で突き進んで行けば)、この詩は違った展開になるかもしれない。
 しかし。
 「よしんば……としても」と仮定ではじまり、「じつは」ということばを通りながらも「……ではないのか」と仮定で終わってしまう。「実」は「通り道」になってしまう。そして、「書く」をテーマにしながら「読む」という違った動詞の中に「結論」が逃げ込んでしまっている。

 厳密な意味では「論理」ですらない。論理「的」という「定型」の運動だ。