高橋睦郎『つい昨日のこと』(141) | 詩はどこにあるか

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141  梟

 日本語と外国語はどう違うのか。あるいは日本人と外国人はどう違うのか。「観念」と「比喩」の結びつき方が違う気がしてならない。ある存在を見つめ、凝縮する。「比喩」になり、「観念」に変化する。そこから「観念(抽象)」がもう一度「比喩/象徴」に変化する。こういう絡み合いに対する訓練が日本語(日本人)には欠如しているような気がする。単に、外国人のことば(翻訳でしか知らないけれど)の方が、抽象と象徴、観念と比喩の結びつきが強靱に感じられるということなのだけれど。
 ことばを熟知している高橋の詩を読んでも、同じことを感じるときがある。


フクロウを宰領とする知恵の女神が
甲冑を身につけているのは 理由のあること
強い翼で飛びかかり 鋭い爪と嘴を立てないでは
血の滴る詩も真実も掴めないのだよ ホーホー    (「掴む」は原文は正字体)


 「知恵の女神」から、すでに日本語ではなく「翻訳」(借り物の観念)の匂いがする。借り物だから「強い翼」「鋭い爪」「嘴」は比喩から象徴に変化していかない。「血の滴る詩」「真実」は観念のままだ。外国人なら、「鋭い爪で肉を掴み、嘴を立てて内臓をむさぼるとき、爪と嘴から血が滴る。フクロウの肉体が噴出させる血のように鮮やかな真実となって」というような感じで、動詞をもっとことばの動きにからませるだろう。「名詞」の組み合わせではなく、「名詞」を「動詞」の動きの中でつかみなおす、あるいは「動詞」の動きを「名詞」として結晶させるというような使い方をすると思う。
 高橋のことばは、「名詞」によって静かに抑えられている。観念/抽象、比喩/象徴の激しさというか、スピードを欠いている。フクロウが鳴いている声を聞いて想像しているだけで、ふくろうがネズミや蛇を襲って食べている姿を目撃して書いた詩ではないからだろう。