高橋睦郎『つい昨日のこと』(139) | 詩はどこにあるか

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139  悲しみ

 老人と赤ん坊を対比させている。


昼寝から帰ってくるたび
世界が新しく見えるのは なぜだろう
眠りの中で自分が老いたぶんだけ
世界が若くなった と思いたいのか
ほんとうは そのぶん世界は老い
自分も 確実に老いている
そのことを 曇らされず知っているから
目覚めた赤子は 激しく泣くのだ


 「意味」はわかる。けれど、「悲しみ」はだれのものを指して言っているのか。老人(高橋)の悲しみか、赤子の悲しみか。高橋は赤子になって悲しんでいるのか。
 ことばは、不思議だ。
 「悲しみ」は高橋にも赤子にもあり、それは「悲しみ」と呼ばれるがそれぞれ別なものである。けれど「悲しむ」という動詞で考えると、「ひとつ」のものに見えてしまう。悲しみにはいろいろ種類があるかもしれないが、悲しむという動詞はひとつ。
 自分が老いたことを知らず、若くなったと思うのは「悲しい」ことである。自分が老いたと知ることも「悲しい」ことである。どちらの「悲しみ」であれ、ひとは「悲しむ」という動詞を生きる。
 これは、奇妙なことだ。
 動詞が「ひとつ」だから、高橋は老人でありながら、同時に赤子も生きてしまう。

 この詩では、もうひとつ「思う」と「知る」の違いにも目を向けなければならない。
 「世界が若くなった と思いたい」の「思う」は、「知る」を超えている。「知っている」けれど、それを知らないことにして「思う」。「こころ」は、どこかわがままなところがある。
 赤子はまだ「思う」ことができない。「知っている」けれど、それを否定してこころを動かすということを知らない。
 そう考えると、さて、「悲しい/悲しむ」はどうなるのだろうか。どういう「姿」をとるだろうか。
 こういうことは考えなくてもいいのかもしれない。知らなくてもいいのかもしれない。わからないまま、放り出しておけばいいのかもしれない。