高橋睦郎『つい昨日のこと』(138) | 詩はどこにあるか

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138  蝉の夏 田原に

 中国では、脱皮する前の蝉を食べる--という話を高橋は田原から聞いたらしい。そこからこんな具合にことばを動かしている。


土から出て幹を登る蝉を採り 袋に入れる
母親が鉄鍋で音立てて 彼らを煎り上げ
五十歳の君の中には いまも何百匹何千匹が
脱皮前の異形で 上へ 下へ 這いまわっている
君の中の無数の沈黙を脱皮させ 飛び立たせてやれ
存分に鳴かせてやれ それが彼らと君の夏の完成


 「無数の沈黙」と「存分に鳴く」が対比される。その瞬間に夏がなまなましく動き始める。ことばでしかとらえることができない世界が出現する。この「ことばの構図」は完結していて強烈だが、また予定調和の「論理」という感じもする。
 しかし、私にはなんとなくうるさく感じられる。
 私は、そういう「論理」よりも、


母親が鉄鍋で音立てて 彼らを煎り上げ


 この一行の「音立てて」が好きだ。蝉が煎られる音なのだが、まるで蝉の鳴き声そのものに聞こえる。
 食べられる前に、蝉はもう存分に鳴いている。それこそ「無数の沈黙」を鳴いている。「脱皮させる」のではなく、「異形のままの無数の沈黙」の「鳴き声」の方がはるかに強烈だ。
 脱皮させてはいけない。
 そういう「論理的な夢」は高橋にまかせておいて、田原には「鉄鍋の音」そのものを書いてもらいたい。
 閻連科は『年月日』でトウモロコシを通して音の神話を描いたが、田原には蝉を主役にもうひとつの神話を書いてもらいたい、と思った。