高橋睦郎『つい昨日のこと』(128) | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

128  夢の後に


夢の中の私は逃げる若者だったが 目覚めた私は疑いもなく老人
ほんとうは 疎まれても拒まれても追いつづけた老人こそが私


 夢はいつでも「意味」に変わる。象徴はいつでも「意味」に変わる、と言い換えてもいい。
 高橋は、こんなふうに「意味」にする。


追っかけられて逃げつづける若者はPoésieではなかったか


 「意味」はわかるが、高橋が詩人だけに、若者を詩にたとえるのは、いささかつまらない。「意味」になりすぎる。「詩」ではなく「Poésie」と書くところが、さらにつまらない。フランス語で書くことで「意味」を追加している。「意味」をうるさくしている。どこかに「意味」を裏切るもの、「意味」を破壊するものがないと、詩を読む楽しみがない。
 「比喩」は「意味」を引き連れているが、同時に「意味」を破壊し、知らなかったものを教えてくれるものであってほしい。


「物事を見抜く若き見者よ、次に語るのはあなただ……」
それは まかり間違っても 私に向けられた言葉ではない


 簡単に引き下がらずに、「若き見者(ランボー)」になってもらいたい。「老人」のあきらめに触れたくて詩を読むわけではない。少なくとも、私は。