高橋睦郎『つい昨日のこと』(127) | 詩はどこにあるか

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127  作法

 三島由紀夫を描いている。


かねてギリシア党を標榜するあなたにして
あの自裁は すこしもギリシア的とは思えない


 否定で始まり、否定で終わる。


腹をかっさばいたのち 首を断ち落とさせるとは
よろず潔さを旨とする蛮風の風上にすら置けない


 しかし、ほんとうに否定しているのか。
 途中の行は、こうである。


あなたの時代錯誤の血なまぐさい作法は
ギリシア人も ローマ人も 目を覆うだろう蛮風


 ここには「否定」の「ない」がない。「蛮風」には「批判」のニュアンスはあるかもしれないが、「ない」ということばが直接でてこないので、それは「批判」というよりも「ドラマチック」に見える。「劇」に見える。
 何かが、身動きがとれずに、破裂した。
 一種の「カタルシス」がある。


それも公の義のためでなく 私の美のために


 「美」が出てくる。「美」は「カタルシス」のひとつだ。何かが壊れ、それを凌駕する形で何かがあらわれる。「綺麗は汚い 汚いは綺麗」(シェイクスピア)が成り立つ瞬間。
 「蛮風」が「目を覆うだろう蛮風」と「よろず潔さを旨とする蛮風」に二種類の意味をもっていることにも、この詩を読むときは、気をつけなければならない。「蛮風は汚い(目を覆うしかない) 蛮風は綺麗(目を見開いて見てしまう)」「公の義は綺麗 公は汚いを義で隠す 私は野蛮を隠さない 私の蛮風は綺麗」と、ことばを動かして読み直すと、高橋が三島をどれだけ愛していたかがわかる。