高橋睦郎『つい昨日のこと』(123) | 詩はどこにあるか

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123  セフェリスに


あなたのXA-I-KA-Iは十六句 十七句目は確信犯的欠番


 「確信犯」ということばに高橋の「共感」を読む。共感しなければ「確信犯」ということばをつかわないだろう。
 「確信犯」を高橋は、こう言いなおしている。


共感のしるしとして献げるに十七句 ではなく わざわざ十六句


 「わざわざ」が「確信犯」である。偶然ではなく、仕組んでいる。「わざわざ」はなくても「意味」は通じる。けれど高橋は「わざわざ」と書かずにはいられなかった。
 なぜなのだろう。
 次の最終行 (結論) の一行を書くためだ。


十七句目の沈黙をもって あなたの俳句讃仰を閉じた


 「沈黙」と「閉じる」。
 高橋が「俳諧(俳句)」から読み取っているのは「沈黙」によって「閉じる」世界だ。句の中に「沈黙」があるのか、句の外に「沈黙」があるのか。句の内と外をつなぐものとして「沈黙」があるのか。
 こういうことは「分析」しても始まらない。「論理」というのは、どのようにも展開できる。つまり「結論」などというものは、どのようにも捏造できる。単なることばの運動の「終わり方」にすぎない。

 だから、というのは変な言い方だが。
 先に書いたことを覆すために、私はこう書きたい。「確信犯」は「わざわざ」と言いなおされているが、他のことばでも言いなおされている。それこそがこの詩のポイントだ。
 引用は前後するのだが、三行目はこうである。


窮極の詩型が歴史の気まぐれの破砕の結果だ と先験的に知っていた


 「確信犯的」とは「先験的」であるということ。それは「わざわざ」と言いなおされているが、「わざわざ」は実は「わざと」ではなく、どうしようもなく「本来的(本能的)」ということだ。
 どんな詩、どんな詩人も「後天的」にはつくれない。「先天的」に詩なのだ。