高橋睦郎『つい昨日のこと』(122) | 詩はどこにあるか

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122  恋の詩と読む人 カヴァフィス再読


不思議だ すべて いまは無いこと


 何と美しい響きだろう。
 美しい響きのなかで、「いまは無い」と、なぜわかるのだろうという疑問がわいてくる。過ぎ去った、消えた。「無い」とわかるのは、覚えているからだ。記憶(肉体)のなかには残っているのに、「いまは無い」と言うしかない。
 「ない」が「ある」ということを発見したのはギリシア哲学だが、この詩の「無い」は哲学的なテーマではないがゆえに、いっそう哲学的だ。


それを見つめる 憧れにひりひり渇いた心とが
しかし 不思議だ そのことをひそかに記した


 「それ」は直前の行に書かれている。あえて、それを省略して引用する。
 「それ」はは何か、人によって違う。しかし、それを「見つめる」ということの方が重要だ。「見つめる」、その結果、こころが「ひりひり渇いた」。見つめたこと、ひりひり渇いたことは過去なのに、いまも「ある」。


言葉の連なりが いまなお生きて 呼吸していて


 ああ、カヴァフィスがいる。そう感じる。
 「無い」ものをめぐって、生きている。「言葉」は「呼吸」である。吸って、吐く。その息に乗って「ことば」が動く。「ことば」というよりも「声」が動く。「肉体」が動く。
 カヴァフィスの詩には、いつも「声/呼吸」が動いている。呼吸が動いている。
 私は中井久夫の訳でカヴァフィスを読んだのだけれど。