高橋睦郎『つい昨日のこと』(121) | 詩はどこにあるか

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121  J・L・ボルヘスに


あなたという不死の水を呑んで 死ねなくなった私たち
呑んだ私たちが死ねないから あなたはますます死ねない


 こう書くとき、高橋はボルヘスをどうとらえているのか。「不死」にあこがれているのか、「不死」を拒んでいるのか。こういうことは問う必要がない。自明のことだ。「不死」にあこがれ、「不死」を理想化している。そして理想化するとき、人は、自分を理想化した人と「等しい」ものと思い込む。
 そして、ここから、さらに私は、こう思う。「不死」を理想化するとき、「死」は「不死」に等しいものになると。「絶対的な死」(完璧な死)こそが「不死」なのだ、と。
 「他人の死」についてなら、たいていの人は知っている。しかし「自分の死」というものを知っている人はいない。自分の「絶対的な死」こそが「不死」である。死ぬことによって、生き続けるものが生まれるからだ。生きているあいだは、すべてのものは死んで行く。しかし、死んでしまったら、そのときいっしょに生きていたものは死ねない。奇妙な言い方になるが、「死」を認める人間がいないと、「死」は存在しない。「死」をみとめるということは、「生きていた」を認めることであり、認めて瞬間に、それは「生き続ける」。「死」こそが「不死」を生み出してしまう。
 高橋は、そういう「ことば」にあこがれている。「文学」にあこがれている。ボルヘスにではなく。だからというべきなのか、ボルヘスは「人間」としては描かれない。人間のかわりに、高橋は「宇宙」を描いてしまう。


宇宙の限り 内へ渦巻く無の陥穽 その底が
湧き返るとき 宇宙そのものが裏返り
すべての有の母なる無さえも 消えようか


 しかし、これはギリシアなのかなあ。「有の母なる無」というのは、東洋の哲学のような気がする。宇宙から見れば、ギリシア(西洋)も東洋もないだろうけれど。

 私はまた、こんなことも思う。
 ボルヘスがギリシアならば、ナボコフはなんだろう。ボルヘスの簡潔、凝縮に対してボルヘスは饒舌、拡大。私にはまったく違った印象がある。高橋のこの詩集に、ボルヘスは登場するだろうか。そう考えるとき、高橋にとってのギリシアとは何かが、もう少し輪郭を明確にするかもしれない。