高橋睦郎『つい昨日のこと』(117) | 詩はどこにあるか

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117  遁れむ いずこに


ギリシア人はホメロスのほか ほとんど読まなかった
素で考え 素で詩をつくり 堂堂としていた
天空はひたすら青く 百千鳥は酔い痴れたりせず
ひたすら 餌をさがし 伴侶を求め
子を育て 死んでいった 疑いも知らず


 「素で」は「ひたすら」と言い換えられている。「素で」が二回つかわれるなら、「ひたすら」も二回つかって言いなおす。ここに、「まっすぐ」な何かが生まれてくる。
 書かれていないが「死んでいった」の前にも、私は「ひたすら」を補う。
 そのあとで、「ひたすら」は「疑いもせず」とさらに言いなおされる。
 これは先に出てきた「堂堂としていた」を言いなおしたものだとわかる。

 見つめているのは、「死」である。「生」が「死」と同じである、と見つめているのだ。
 「死」が何であるか、誰も知らない。「他人の死」は知っているが、自分の死はどういうものか、知っている人はいない。同様に、「自分の生」を知っている人はいない。日々、発見し、ひたすらに生きるしかない。

 さて。
 「疑いも知らず」と高橋は書いているが、ギリシア人のひとり、ソクラテスは「ひたすら」疑った。疑って、疑って、疑って、「知らない」ということにたどりついた。そして、死んでいった。
 ソクラテスは何も知らない。だから何にも頼らずに「素で」考えた。考えて、考えて、考えて死んでいった。
 あ、ソクラテスは「考える」ということについて、疑いを持つことを知らなかったということか。「ひたすら考える」とき、ソクラテスは「ひたすら」ということ、「素」であることを信じていたのか。

 私は「ひたすら」死ぬことができるだろうか。
 「素で」死ぬことができるだろうか。