高橋睦郎『つい昨日のこと』(115) | 詩はどこにあるか

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115  アマーストのサッポーに

 この作品には「白熱した魂を見たい?--E・ディキンスンに」という「副題」のようなものが書かれている。ディキンスンに捧げられた詩である。高橋は、ディキンスンを「アマーストのサッポー」と呼んでいる。
 高橋はディキンスンの墓を尋ねる。でも「そこにあなたはいなかった」。ディキンスンは、では、どこにいるか。詩のなかにいる。


それらの詩が書かれたのがあなたの庭なら そここそがあなたの永遠の栖み家
私は八日の間 その庭に毎日遊んで 庭の記憶でいっぱいになって帰ってきた
帰ってきて 私の庭に椅子を出して くりかえしあなたの詩篇を復唱した
いまではたぶん私の庭があなたの墓 遠いあなたの庭と一つづきの


 ディキンスンの庭と高橋の庭が「一つづきになる」。「一つになる」のではなく、「つづき」。
 これは、これまで読んできたモーツァルト、キイツ、シェリー、ポーについても言えることだ。高橋は彼らと「一つ」になることはない。あくまで「つづく」(つながる)のだ。そして、その「つづき」(つながり)のなかに、いくつものギリシアが浮かび上がる。その彼ら独自のギリシアと高橋は「遊ぶ」。そこにある「違い」と喜ぶ。
 「違い」があるということは、ギリシアが「ほんもの」だからである。どんなものでも、それに対する「思い」というものは、どこかしら「違い」を含んでいる。もし、「思い」が完全に一致するなら、それは「ほんもの」がもたらす思いではなく、「嘘」が「思い」を統一しているからだ。
 「新約聖書」はキリストの目撃証言集とでも言うべきものだが、同じキリストを見ているのに、少しずつ「違う」ところがある。これはある意味では、実際にキリストがいたということを証明する。もしまったく違いがなかったら、それは最初からつくられた「嘘」である。ことばは、それぞれがつかうから、どうしても違ってくる。同じものがコピーされるとしたら、「嘘」だからである。
 「新約聖書」がキリストと「一つつづき」であるように、高橋が取り上げた詩人たちはギリシアと「一つづき」なのである。その「一つつづき」のなかに高橋は分け入っていく。「一つつづき」になろうとしている。

 高橋の書くギリシアは、彼らの描くギリシアと違ったものを含んでいる。だからこそ、ギリシアは確実に存在する。