103 何十年ぶり
この詩も「記憶」を書いている。
今朝 何十年ぶりに きみの噂を聞いた
全くの孤独のうちに死んでいた という
あんなにも熱く 睦言や抱擁を交わしたきみ
それなのに むごたらしく裏切ったきみ
「噂を聞いた」と書くが、噂はそっけない。むしろ、噂を聞いて「思い出したこと」が書かれている。
それは噂のなかには含まれないものである。
噂よりも、思い出の方が重要なのだ。思い出がなければ、噂を聞いても、それは耳を素通りしていく。しかし、思い出は通りすぎたりはしない。「肉体」をひっかきまわす。「肉体」をあのときへと連れて行く。
それは「裏切り」よりもむごたらしく、同時に甘く、切ない。思い出はいつも矛盾している。整理できない。
あの悦ばしかった夜夜 苦しかった日日が
何十年ぶりに 急に近いものになった
「悦ばしい」と「苦しい」が結びつくときよりも、「遠い」と「近い」が結びつくときの方が、矛盾として大きいかもしれない。「悦ばしい」「苦しい」は「主観」なのに、「遠い」「近い」は「客観」である。「遠い」「近い」は「客観」としてあらわすことができる。この詩では「何十年」というあいまいなことばでしか書かれていないが、「年月」の長さは客観化できる。それなのに、その「客観」を「主観」が否定し、「遠い」を「近い」にしてしまう。主観は、そのようにして「事実」になる。
後半は、この美しい「事実」を、まったく違うことばでかき消してしまう。
後半に、高橋のいまの「事実」があるのかもしれないが、せっかく近づいてきた「過去」を抱きしめないのはなぜなのだろう。
「主観」を知られたくない、という思いが高橋にあるのかもしれない。それは大事な大事な宝なのである。