高橋睦郎『つい昨日のこと』(102) | 詩はどこにあるか

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102  記憶こそ


どうして抱かなかったのだろう ほんの少し勇気を出して
ベッドに腰掛けたぼくに腿を接して きみが腰掛けたのに
けれど 抱かなかったことで きみはその時の年齢のまま
そして きみと並んだぼくの年齢も きみのそれにあやかる


 詩はあと二行続いているが、ここまでで十分だと思う。
 いや、最初の三行だけの方が魅力的だったかもしれない。

 三、四行目は、「けれど」「そして」と動いていく。それは「事実」の描写だけれど、同時に「論理」を誘っている。
 あとの二行は、「論理」にしたがって「結論」を出す。「結論」を「こそ」ということばで強調しているのだが、「結論」の強調はつまらない。
 思い出すことができるなら、それは抱く、抱かないとは関係なく、「肉体」に刻み込まれているのだから、セックスではないのか、と私は思う。
 もしかすると、抱くことよりも抱かないことの方が勇気がいるかもしれない。
 そのとき、こころが、いつもより激しく動いていたのではないか。
 肉体が動けば、肉体がこころよりも優先される。こころは一瞬、忘れ去られる。でも、高橋はそのとき、こころの動きの方を大事にしたのではないのか。ためらう瞬間の苦しみを大事にしたのではない。--私は、そんなことを想像する。
 きっと葛藤があったのだと思う。
 それは「結論」とは関係なく、いつでも美しい。