高橋睦郎『つい昨日のこと』(88) | 詩はどこにあるか

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88 夢の中の自分


夢の中の自分は なぜいつも少年か青年なのか


 高橋は、この疑問から詩をはじめている。そして、


老年の等身大の自分の夢を見ることが ついに出来ないというならば
かの世で老人の自分で会えるよう せいぜい自分を鍛えなければ


 ここで展開される「論理」は複雑である。
 老人である高橋は、夢の中の少年、青年よりも先に死んでゆく。そしてあの世へゆく。夢の中の少年、青年は、まだまだ死なない。夢の中の少年、青年が年をとり死ぬまで、死んでしまった老人である高橋はあの世で生きていられるか。夢の中の少年、青年が死んでしまったとき、あの世で老人の高橋と会えるよう、あの世で高橋が先に死なないよう、高橋自身を鍛えておこう、というのである。
 これは「論理」のなかだけで成立する「ことばの運動」。「論理の錯乱」の特権が詩になっているというべきか。「論理」というのは、どういうことでも「論理」にできる。「非論理」という「論理」もあるからだ。

 こういう「論理」よりも、私は、この詩にあらわれた「等身大」ということばに興味を持った。「等身大」というのは、文字通り「大きさ」のことである。そのひとのからだと同じ大きさ。
 ここから逆に見ていくと、少年と青年は、高橋とは「等身大」ではない。かつては「等身大」であったが、いまは「等身大」ではない。「少年」は簡単に言えば「小さい」。「青年」はどうか。老年になると身長が縮むから、「青年」の方が背は高いかもしれない。でも、からだがひきしまっているから、体重は「青年」の方がほっそりしているかもしれない。
 もちろん「等身大」を精神の比喩とも理解することはできるが、私には、高橋はが「肉体の形」を気にしているらしく感じられる。
 これは逆に言えば、「鍛える」は単にあの世で再び先に死んでしまわないように、というよりも「少年」「青年」から見ても、老人の高橋が高橋であるとわかるような「肉体の形」でいられるように、いまの形を整えておこう(鍛えておこう)ということである。