永井章子『出口という場処へ』 | 詩はどこにあるか

詩はどこにあるか

詩の感想・批評や映画の感想、美術の感想、政治問題などを思いつくままに書いています。

永井章子『出口という場処へ』(澪標、2018年09月30日発行)

 永井章子『出口という場処へ』には「出口」ということばがたくさん出てくる。どこかに入り込んでしまう。そして出口がわからなくなる。たとえば「手を浸すと」では美術館に入り、青い色にみとれているうちに閉館を告げられるが、「出口」がわからなくなる。若い女が「ついて来てください」と言う。
 でも、永井がほんとうに迷い込んだのは「美術館」ではなく、一枚の絵、「青い色」なのだ。だから、


後ろをついて歩きながら
思い切ってたずねる
「青色についての説明はないのですね?」


 「出口」は「場所」であるかもしれないけれど、それよりも「出て行く」という動詞の「方法」なのだ。永井のなかに「道」ができない限り、永井は出て行くことはできない。何から? 「青い色」? 青い色に染まってしまった彼女自身から?
 「橋を渡って」には、こんな行がある。


それまでの私は 前に進むために いつも出口を探していました とにか
く ここから出なければ 何も始まらない そんなことばかり思ったもの
でした


 「出口」は「前に進む」と言い換えられている。
 でも、人間は、そんなに簡単には「前に進む」ということができない。こころがどっぷりとつかってしまったものからは、簡単には「出て行けない」。何かに入り込む(どっぷりとつかりこむ)ということは「道」を失うことだから。
 もし、「出口」が見つかり、そこから永井が出て行ったとき、取り残された「青い色」はどうなるのだろうか。「前に進み」ながら、きっと永井は、こんどはそれが気になるはずである。もし、出てしまったら(前に進んでしまったら)、あのときの「私(あるいは青い色)」はどこにいるのだろう。
 こんなことを考えてしまうのは、「待っています」を読んだからかもしれない。


あなたは きれいな蝶をもっている
私がまだ若い 気の遠くなるほど昔のこと 僧形をした人に言われました
たしか 出口と書かれたすぐ側で だったように思います


 この「出口」は「駅の出口」なのだが……。
 駅の出口に来ながら、永井は「蝶のための出口」を探している。蝶は永井のからだのなかにいる。僧形の人に言われたときから、永井のからだのなかにいる。いつのまに入り込んだのか、あるいはいつのまに生まれたのか、永井にはわからない。
 蝶を「詩」の比喩と読むこともできる。美しいなにか。飛んで行くことを願っているなにか。でも、蝶は、それを永井に訴えかけてこない。「ここから出して」「出口はどこ」とは言わない。言わないけれど、そのことが逆に永井を突き動かす。永井は知らず知らずに蝶になって「出口はどこ」と言ってしまう。


あなたは きれいな蝶を持っている
それからは 手隙の時 その文言が浮かぶようになったのです
あなたは きれいな蝶を持っている
浮かぶと 我慢できずに駅の出口に来てしまいます
今も 出口と書かれた下に立っています


 まるで「出口」ということばがあれば、それを目指して蝶が永井の中から跳びだしてくる(逃れてくる)と思っているみたいだ。
 きっと永井は、自分が持っていると言われた蝶を見てみたいのだ。その「蝶」が飛んでゆく「道」を知りたいのだ。あるいは、「蝶」そのものになりたいのだ。自分から出て行き、自由に飛び回る「蝶」に。
 自分のために「出口」をさがすのではなく、蝶のために「出口」と「道」を探している。そして、それこそが自分のためでもある。「蝶」になるただひとつの方法である。

 ここから「手を浸すと」にもどってみる。
 永井は「青い色」を見た。見ることによって、「青い色」は永井をつつみこみ、また永井のなかにも入ってきた。内と外の区別がなくなった。「出口」も「入り口」もない。でも、もし、その永井のなかに入ってきた「青い色」が、もう一度永井の外に出たとしたら、それはどんな色になっているだろうか。
 わからない。

 うーん。
 永井の詩を、私はそんなに注意深く読んでいるわけではない。だから、「カン」で言うしかないのだが、永井は何か「哲学的」なことを、彼女自身のことばで語ろうとしている。多くの詩人は、西洋哲学(西洋思想)のことばを借りてきて「思想」を粉飾するが、永井は彼女の知っていることばだけを手がかりに考え、ことばを動かそうとしている。
 「出口」「前に進む(道をつくる)」「(なかに)持っている」。それを丁寧に見つめようとしている。
 私は「補助線」として「道」という東洋哲学のことばをつかったが、永井は、そういうことばにも頼らず、永井が「肉体」でつかんできたことばだけをつかっている。







*

評論『ことばと沈黙、沈黙と音楽』を発行しました。190ページ。
谷川俊太郎の『聴くと聞こえる』についての批評をまとめたものです。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073455
↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑↑
ここをクリックして2000円(送料、別途250円)の表示の下の「製本のご注文はこちら」のボタンをクリックしてください。


「詩はどこにあるか」8・9月の詩の批評を一冊にまとめました。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168074343


オンデマンド形式です。一般書店では注文できません。
注文してから1週間程度でお手許にとどきます。



以下の本もオンデマンドで発売中です。

(1)詩集『誤読』100ページ。1500円(送料250円)
嵯峨信之の詩集『時刻表』を批評するという形式で詩を書いています。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072512

(2)評論『中井久夫訳「カヴァフィス全詩集」を読む』396ページ。2500円(送料450円)
読売文学賞(翻訳)受賞の中井の訳の魅力を、全編にわたって紹介。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168073009

(3)評論『天皇の悲鳴』72ページ。1000円(送料250円)
2016年の「象徴としての務め」メッセージにこめられた天皇の真意と、安倍政権の攻防を描く。
https://www.seichoku.com/user_data/booksale.php?id=168072977




問い合わせ先 yachisyuso@gmail.com