高橋睦郎『つい昨日のこと』(84) | 詩はどこにあるか

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84 犬のギリシア

 「83 老人と犬」には現実の犬は登場しなかったが、この作品では「ギリシアには 何処にも犬がいる」と高橋が街でみかけた描かれている。しかし「犬」の描写では終わらない。ギリシアの経済破綻寸前の状況にふれたあと、詩はこう展開する。


いつ崩壊するかわからない この人間世界は
犬の目に どう映っているのだろう
そして その視界をつかきまよぎる旅人の翳は?
翳は去るや見る間に老い 冥府への道を急ぎ
犬は永久に生まれ変わり 死に変わる


 「死に変わる」か。「生まれ変わる」という表現があるのだから、「死に変わる」という言い方があってもいいのかもしれない。
 「死にざま」ということばが、いつのまにか「生きざま」にとってかわったように。
 しかし、一般に「死に変わる」とは言わない。なぜだろう。「死ぬ」とこの世から存在しなくなる。ほんとうに「変わった」のかどうか、確かめられないからだろう。
 「生まれ変わる(生まれ変わり)」もそれが事実であるかは確かめられないが、いま、この世にいる存在について、そういう具合に思うことはできる。想像することができる。
 けれど「死に変わる(死に変わり)」は想像の出発点に「存在」がない。「死んだ」という事実、「死体」という事実はあるが、それはあくまで「この世」に存在するものであって、「死の世界」で確かめることはできない。
 これは「論理」がつくりだした「誤謬」というか、「誤読」というか、「ことば」でのみ「想起」できる何かである。
 想像力は、いつでも「間違える」。想像力とは事実を歪める力であると言ったのはバシュラールだったか。
 しかし、それが「間違い」であっても、ことばにした瞬間、それが「事実」のように出現してしまう。「間違い」を「論理的」に出現させる、生み出してしまうのが、詩という装置かもしれない。

 「死に変わる」。これは、詩にしか書けないことばである。