2018年09月24日(月曜日)
78 神聖喜劇
ソクラテスとプラトンを描いている。
私にとってソクラテスは最大の謎である。ソクラテスの言っていることは、私の考える限り「論理」的に正しい。けれど、その論理の正しさはソクラテスのいのちを守れなかった。いのちを守れなくて、どうして正しいと言えるのか。
ソクラテスの論理は間違っているのではないか。
でも、私は、「間違い」を見つけることができない。
この問題を高橋がどう解決したのか、よくわからない。こう、書いている。
老いさらばえて尊厳ある自然死なんて 何処にもありはしない
あるのは 汚物と屈辱にまみれた みじめ極まりない最期ばかり
七十過ぎてなお強健なソクラテスが何より怖れていたのは それ
これはほんとうか。私にはわからない。ソクラテスは「汚物と屈辱にまみれた みじめ極まりない最期」を恐れたかどうか、それはどのことばをもとにすれば、そう判断できるのか。高橋は、ここでは書いていない。
つづけて、こう書く。
だからこそ 神界を否定した科に自死せよという 虚偽の判決を
かえって神神からの慈悲にあふれる贈りもの と悦んで受け容れ
獄舎の夕べ 信奉者たちの嘆きに囲まれ 従容と毒杯を飲み干した
「だからこそ」ということばは、この詩でとても重要だ。
高橋は、ソクラテスが老いの死を恐れたという根拠を示していない。それなのに、高橋は自身の想像(?)を根拠として、「だからこそ」とさらにことばを先へと動かしている。想像に想像を重ねる。
まるで想像を押し進めれば、想像が「事実」に変わるかのようだ。
詩は、たしかに、そうなのかもしれない。
詩は「客観的事実」でなくていい。「個人的な事実」(主観的な事実)でいい。「主観」が強ければ強いほどいい。「強さ」が「事実」なのだ。
死の場面は描かないという作劇術暗黙の決めごとを 敢えて破り
もと悲劇作者志望の若きプラトンが いきいきと描いたのは
この最期の大団円 すくなくとも喜ばしい破局と断じてのこと
「強さ」は「いきいき」と言いなおされている。