高橋睦郎『つい昨日のこと』(73) | 詩はどこにあるか

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73 ギリシアの冬

 ギリシアの冬を私が知ったのは、映画「旅芸人の記録」(テオ・アンゲロプロス監督)からだった。それまではギリシアに冬があるとは知らなかった。濡れた泥に映る冬の空。その美しさ。まるでふるさとの北陸の風景そのままに暗くて冷たい。私は、あの映画でギリシアがなつかしいものにかわった。そのときは、まだ行ったことがなかったのだが。(テオ・アンゲロプロスの映画からは、霧のギリシア、雨のギリシアも知った。その灰色と黄色い雨合羽の組み合わせの美しさも知った。)
 高橋はロンゴスの作品からギリシアの冬を知った、と書いている。高橋も実際にはギリシアの冬を知らない。


ただし 片鱗なら見たことがある アッティカのとある浜辺 雪のちらつく中
下っ腹の出た老人男女十数人が 寒中水泳を始めようと騒いでいたっけ
ほんと 老人には痩せがまんが 痩せがまんには冬が似合う


 ここには実感が書かれているなあ、と感じる。「下っ腹の出た老人」は「下っ腹」は出ているが、全体を見れば痩せているのだろう。痩せているから下っ腹が出て見える。その「痩せた」印象から「痩せがまん」ということばが自然に出てくる。
 このあと詩は、こう締めくくられる。


若者に冬は似合わない ことに眩しい裸の若者たちには


 「72 裸身礼讃」を引き継いで、この詩が書かれていることがわかる。
 しかし、こんなふうに簡単に老人と若者、冬と夏の光を対比されてもおもしろくない。せっかく老人の姿を描いたのに、それをぱっと消してしまう。もっと老人と冬との関係、そのときの「実感」を別なことばで言いなおしてもらいたい。冬は夏を思い出すためにだけあるのではないだろう。