高橋睦郎『つい昨日のこと』(67) | 詩はどこにあるか

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67 ギリシア病二


街なかから振り返るアクロポリスに 遠近法は存在しない
すくなくとも 東洋風の水蒸気の 曖昧模糊の遠近法は


 この二行は非常に印象的だ。
 「遠近法」と言えば、私は「一点透視」を真っ先に思い出してしまう。近くのものを大きく、遠くのものを小さく。最終的に「小さい」は「点」になる。
 水墨画などにみられる「濃淡の遠近法(水蒸気の遠近法)」は絵を線ではなく面で意識するようになってから「遠近法」と理解できるようになった。
 しかし、高橋は「水蒸気の遠近法」から出発している。


ギリシアでは 遠いもの近いもの 等しくやたら克明
以来 どんな対象も 正確無比に表現しなければ納まらない


 「曖昧模糊」と「正確無比」が対比されている。


極東の水の女神の曖昧には 曖昧の黄金分割比例を


 「曖昧模糊」は「水(水蒸気)」、「正確無比」は「黄金分割比例」という具合に動いていくが、この「黄金分割比例」は「光」と言いなおすことができる。東洋が「水(蒸気)」の世界観でできているのに対し、ギリシアは「光(透明な空気)」を前提としている。この指摘はわかるが、では、高橋はいま世界をどんな「遠近感」で詩を統一しようとしているのか。
 「遠近感」には二種類ある、と分類する。そういう「知」の力を身につけることが「ギリシア病」(ギリシアの精神になること)というのか。
 東洋の遠近法を「水蒸気の遠近法」と呼ぶのなら、そうではない「黄金分割比例」にもとづく「ギリシアの遠近法」で世界を実際に描いて見せる必要がある。「ギリシアの遠近法」で描かれた世界を見せられれば、読者は、「あ、高橋はたしかにギリシア病にかかっている」と思えるが、「東洋の遠近法とは違う」という指摘だけでは「ギリシア病」というものが伝わらない。「ギリシア病」にかかった視線で「高橋の遠近法」を描いて見せてくれなければ、「病気」かどうかわからない。その病気には感染力がない。
 無害なものは詩ではない。