62 画家たちに
ギリシアの芸術と言うと、彫像を思い出す。絵画は、壺に描かれた絵くらいしか思い浮かばない。画家がいなかったのか。描いたけれど、失われたのか。
高橋は、こう書いている。
その作品が跡形なく滅び亡せたがゆえに ギリシアの画家たちよ
あなた方を讃えよう 讃えるこれらの言葉も消えて無くなれ
失われたらしい。何に描いたにしろ、布や木は形を失いやすい。色も褪せるだろう。それでもひとは描かずにはいられない。そう認めた上で、高橋はこう書いている。
男神 女神 若者たち 少女たちの彫像を残した彫刻家より
描いたすべてを喪われるに委せた画家たちのほうが 美に叶っている
この世の美は仮のもの その彼方にある真の美をこそ見つめよ
美は描いたものの彼方にある。だから絵は失われてもかまわない。描く瞬間に見つめている、いま、ここにないものこそが美だからである。「美の定義」に叶う。
この「叶う」という動詞がおもしろい。「一致する」、「望み通りになる」ということだが、そのとき「ふたつ」のものが存在する。
「一致する」ためには「ふたつ」以上のものがないと「一致する」ということは起きない。また「望み通りになる」というのは、「対象」とは別の存在(別の人間)が「望む」のである。
「一致」ということばとは裏腹に、そこには「一致しない」ものがあるという現実(事実)がある。
そうだからこそ、「真の美をこそ見つめよ」と書いた後、詩は急展開する。
そうくりかえし言う智者の言葉さえ 真実へ到る道への躓きの石
「真の美」を見つめる(想起する)ということは、「真の美(真実)」がいま、ここに存在していないと認めることであり、同時に「真の美(真実)」は永遠に存在しないと認めることだ。
「真」は「想起」のなかにしかない。そして「想起する」という動きは、ことばになって動く。だからこそ「言葉も消えて無くなれ」と高橋は言わざるを得なくなる。
ただこの「論理」は「詭弁」に似ている。技巧的だ。古今、新古今のことばを動かしている「美」のようなものに似ている。私にはギリシアとは違うもののように感じられる。