高橋睦郎『つい昨日のこと』(56) | 詩はどこにあるか

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56 断片を頌えて

 「54 海辺の墓」「55 美しい墓」と違って、この詩からは、私はギリシアを感じる。断片化した「胸像」を見て書いた詩である。胸像は木ではないから朽ちてはいない。また虹のように消えることもない。
 その断片を見ながら、高橋はこう書いている。


私たちは 残された部分から 在りし全体を
在りし全体を超えて あらまほしかりし完型を
想像する むしろ創造することに 導かれる


 もし高橋がほんとうに木の方が死を弔うのに「ふさわしい」と考えているのなら、石の胸像ではなく木の胸像を見たときにこそ、ここに書かれていることを言うだろう。
 それが木の像であっても、「残された部分から 在りし全体を/在りし全体を超えて あらまほしかりし完型を/想像する」と言えるだろう。
 そこにないもの(欠落したもの)を想像する、さらにそこから理想を創造するというとき、「素材」は問題ではない。想像する/創造するのは、人間の力である。石や木が運動するのではなく、人間が動き、石や木に形をあたえるのだ。
 ここにあるのも「事実」というよりは、むしろ「ことば」であるに過ぎない。
 ただしこの詩のことばは、ギリシアにしっかり根付いている。石の胸像を出発点としているだけではなく、「想起する」(しかも集中力を持って想起する)ということが、ギリシアの古典哲学そのものだからである。
 想起するとき、そこにあらわれる完全な姿(形)こそ、ギリシア哲学が語るものだ。

 ノミ後の残るギリシアの像の方がローマ時代の像よりも強いと言ったのは和辻哲郎だが、ギリシアの像には「完全な形」を夢見る集中力がある。それが「断片」にも生き残っている、と私も思う。