高橋睦郎『つい昨日のこと』(50) | 詩はどこにあるか

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50 崖 シンタグマ広場

 高橋は「現実」を書いていない。死を書いている、という視点から読む。また「読み方」を変えるかもしれないが、きょうはそういう視点から読んでみる。


店の名はO Tzizikas O Mermigas  戯れに訳して蝉蟻亭
もちろん出どころはアイソポス 遊び好きも働き者も歓迎というところか


 ここでも問題は「名(店の名)」。「名づける」である。店の名前は「現在」の名前である。しかし「出典」は古典。アイソボスは、イソップか。蝉と蟻。蝉は遊び者、蟻は働き者。「比喩」は「名づける」という動詞を先鋭化したものだ。ひとつの特徴を引っ張りだし、「名」の代わりにする。
 そんな「ことば」の「歴史」と高橋は向き合っている。


カラフの白ワインを傾ける ドルマデスとギリシアサラダの皿をつつく


 という「現実」も出てくるが、高橋のことばはすぐに「現実」を離れる。「歴史(過去)」へと向かい、そこから「いま」「ここ」にない「真実」を取り出す形で動く。「死んでしまった真実」にことばをあたえる。もう一度「事実」にしようとする。


飲みながら食べながら思うのは崖 アイソポスが群衆から突き落とされたという
落とされた理由は吐きつづけた嘘 むしろ嘘に包まれた聞きたくない真実
逆に私が書いてきたのは真実めかした嘘 崖落としにも価しまい


 「嘘」とは「比喩」のこと。「比喩」のなかには「真実」がある。「真実」とは見なければならないものだが、見たくないものでもある。「現実」という事実の絡み合いの中に隠しておきたいこともある。隠しておいて、その都度、都合にあわせて「真実」をとりだしたい、つまり「名づける/ことばにする」ことで、それを共有するというのが人間の生き方だろう。
 「ことば」は「現実」のなかでは揺れ動く。
 詩は、そうではない。「揺れ動かない」何か、「個人的な事実」を語る。高橋の「個人的事実」とは「文学」にほかならない。つねに「古典」が高橋のことばを突き動か。死(歴史としての文学のことば)が高橋の「現実」だからである。
 ギリシアを旅しながら、高橋は暗喩としての「死」と向き合っている。