高橋睦郎『つい昨日のこと』(46) | 詩はどこにあるか

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46 旅みやげ


このさにつらう円い小石は ミュティレネの
波打ち寄せる渚に遊んで 拾ってきたもの


「ミュティレネ」とはどんなところなのか。高橋は「オルペウス」を引き合いに出し、また「サッポー」も引用する。
 しかし、


それらの事跡をしのばせる どんな記念も
現つのレスポスには 何一つなかったもので


 だから「小石」を「旅みやげ」にしたという。

 私は「どんな」ということばに詩を感じた。ギリシアの古典に通じる「どんな」ものも売っていなかった、というのだが、この「どんな」を動詞にするとどうなるのだろうか。
 高橋は「どんな記念」と書いている。「記念」は「事跡」ということばにもつうじるが、その奥には「事件/できごと」がある。「事件/できごと」とは人が動くことによって起きる。
 そこには「どんな」歴史や古典につうじるものもなかった。そのとき高橋は「どんな」ことをしたのか。渚で「遊んだ」。その「記念」として小石を拾った。
 「どんな」は、過去といまを、そんなふうにつないでいる。
 さらにこんなことも考える。
 「どんな」小石を拾ったか。「円い」小石である。
 「円い」には「意味」がある。「円い」は「丸くなる」という動詞としてとらえてみることができる。「丸くなる」には「時間」が必要だ。時間の中で、水(波)に洗われ、小石どうしがぶつかる、こすれあう。そこには「歴史」や「文学」には書かれなかった「時間」がある。
 高橋は、その「書かれなかった時間」と遊んだ。その「遊び」には、オルペウスもやってきた。サッポーもやってきた。いっしょに「書かれなかった時間」を生きた。
 その「記念」が「円い」小石だ。