高橋睦郎『つい昨日のこと』(44) | 詩はどこにあるか

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44 岸辺で スカマンドロス河


パンタレイ すべては流れる 滔滔と 轟轟と
岸辺で放心して 見つめている私も 流れる


 「流れる」という動詞は「河」を描写することから飛躍する。「私も ながれる」とことばをつづけることで、描写から哲学に変わる。


時が 時という幻が 流れつづけているだけ


 「時」と「私」が重なる。「私」もまた幻なのだと告げて、この哲学は、次のように結晶する。


流れ去る そのことさえも 流れ去る
何もない 何もないことも 流れ去る


 この哲学は哲学として、「意味」はわかる。けれど、高橋がギリシアで実感したのかどうか、そのことについては私はよくわからない。
 私は高橋が見ている「スカマンドロス河」は知らない。私はアテネのほんの一部を知っているだけだが。
 私の印象では、ギリシアでは何も流れない。「時間」は特に流れない。思い出す瞬間に「時間」は目の前にあらわれる。アテネは坂の多い街だが、坂に出会うたびに私は、ソクラテスが歩いてくるのを見た。「対話篇」のなかにソクラテスが坂を下ってくる場面が描かれているからだ。
 ギリシアでは何もかもが「明瞭になる」、つまり「あらわれる」。現前する。
 「流れ去る」さえも「あらわれる」。言い換えると「ことば」になる。そう「誤読」したい。