高橋睦郎『つい昨日のこと』(42) | 詩はどこにあるか

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42 排泄するギリシア エペソス

 美しいものと汚いものの対比。「公衆便所の遺構」が「ギリシア人も排泄したのだ と気づかせてくれる」と書いた後、高橋は、こうことばをつづける。


かの腰をひねる円盤投げの若者も 自らの蹠に見入る棘抜き少年も


 「腰をひねる」「蹠に見入る」というのは「肉体」をいじめるような動きだが、その「いじめる」感じがエロスを誘う。美しい肉体が歪む。歪むことで、いままで見えなかった美しさがあらわれる。
 ここには糞と肉体の関係が隠されている。
 だからこそ、こんなふうに展開していく。


その美しい肉体の内側には なまなましい腸が走り わだかまり


 「腸」のかわりに「あふれる力」(あるいは肉体を制御する力)を入れてみるといい。人間の肉体が動くとき、そこには力の爆発と制御が繰り返されている。どんな美しさも、その二つが組み合わさっている。
 「青年(美少年)」に目を向けるだけではなく、高橋は、さらにこんなふうに世界を広げる。


あの尻の美しいアプロディテも屈みこんで 脱糞したし
そのとぐろを巻いた糞塊には 黄金の蠅が群がったのだ


 しかし、おもしろいなあ。私は思わず笑いだしてしまう。
 「青年(美少年)」書いていたときには「排泄」という気取ったことばがつかわれていたのだが、美女が登場したとたんに、「屈みこむ」「脱糞する」「糞塊」「蠅」というような、なまなましいことばが溢れだす。「蠅」には「黄金の」という修飾語がついているが、それは蠅の汚らしさを強調するための「補色」のようなものだ。
 「蹠」とか「棘」というような繊細なことばは消えてしまう。
 人は誰でも排泄する。ギリシアの時代からそれは変わらない、という「意味」はありきたりだが、この「青年(美少年)」と「美女」との描き方の違いは楽しい。高橋の「肉体」(本能)をくっきりと印象づける。